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column 京都「人生がラク」になるイイ話

世の中、捨てたもんじゃない…
「神泉苑」の怒涛の物語

こんなはずじゃ無かったのに・・・。

日々、頑張っているつもりでも突然、「こんなはずじゃ無かったのに」と思うような出来事が起こることがあります。たとえば・・・

1.突然、交通事故に遭って長期入院。その後、閑職にまわされた。
2.突然、社運を賭けたプロジェクトが中止された。その後、会社が倒産して失業した。
3.突然、母親が倒れて寝たきりになった。その後、終りの見えない介護生活が始まった。

 このような出来事は、突然、降りかかってくるので避けようがありません。また、最近では天災で人生が一変することも少なくありません。私も20年前、兵庫県西宮市に住んでいて阪神大震災で被災し、その後の価値観が一変してしまいました。

しかし、ハッキリ言えることは「こんなはずじゃ無かったのに」と嘆いているだけでは、この先一歩も進めないということ。早く心を入れ替えて、前に進まなければなりません。

そこで今回は、祇園祭を生んだ史蹟「神泉苑(しんせんえん)」に秘められた怒涛の物語を紹介しましょう。「どんな憂き目に遭っても大丈夫」そんな応援メッセージが聞こえてくるはずです。

神泉苑の正門。ひっそりとした寺院に見える

弘法大師の寺院になった「平安京最古の史蹟」

 神泉苑は約1200年前、平安京遷都とともに桓武天皇がつくった禁苑(天皇のための庭園)です。現在は当時の十数分の一しか残っておらず、弘法大師を本尊とする東寺真言宗の寺院になっていますが、文化財としては平安京最古の史蹟として国の指定を受けています。

 私は最初、「神泉苑」について「なぜ、天皇の庭園が弘法大師の寺院になったのだろう」と素朴な疑問をもちました。天皇が開基した寺院や菩提寺ならわかりますが、弘法大師を本尊とする寺院です。しかも、神泉苑は“平安京最古の史蹟”でもあります。「祇園祭発祥の地」とされていますが、祇園祭と弘法大師の因果関係もよくわかりません。調べれば調べるほど疑問が湧いてきました。そのうち「神泉苑には、すごい物語が秘められているのではないか」と思うようになり、まずは行ってみることにしました。

 初めて訪れた「神泉苑」は予想していたより小さいものでした。しかし神泉苑の中心をなす「法成就池(ほうじょうじゅいけ)」は吸い込まれそうな深い色の水をたたえ、びっくりするほど大きな鯉が数匹いて、時々、光る鱗(うろこ)を水面に見せます。それだけでも歴史を感じましたが、神泉苑の歴史は想像を超えた壮絶なものでした。

花見も、祇園祭も、ここから生まれた。

 そもそも平安京が造営された794年、現在「二条城」がある場所には、二条城より数倍大きな「大内裏(平安京の宮城)」がありました。「神泉苑」はその南側、二条通から三条通まで南北約500m、東西約240mに及ぶ敷地につくられた、天皇の大庭園でした。

 「神泉苑」の解説書によると、そこには太古から「神泉」といわれる湧水があり、その水をたたえた大池が広がっていたそうです。平安京造営の際、その湧水と大池を活用して周囲の林を取り込み、豪華な殿舎を築いて、天皇の庭園を造ったと記されています。

 完成したのは桓武天皇が行幸(天皇が外出すること)された800年。平安遷都から6年が経過していましたが、この行幸は神泉苑の完成を意味するものとなり、その後、各帝が行幸することが多くなりました。

 平安時代初期に編さんされた勅撰史書(天皇の命によって編さんされた書物)「日本紀略(にほんきりゃく)」には、嵯峨天皇が812年に神泉苑にて「花宴の節(かえんのせち)」を催したと記されており、これが記録に残る初めての「花見」とされています。

 また清和天皇の時代863年には都に疫病がはやり、神泉苑で御霊会が行われました。さらに6年後の869年には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社のあたり)に、当時の律令制度の国の数である66本の鉾(ほこ)を立てて祇園社から神輿を出しました。これが祇園祭の鉾巡行の起源になったと伝えられています。

 このように当時、神泉苑では京都を代表する行事が行われていたようです。天皇の大庭園ですから、当然だったのかもしれません。

弘法大師、小野小町、源義経、静御前・・・そして荒廃

 そんな中、神泉苑では徐々に宗教的行事が増えていきました。特に淳和天皇の時代、日照りが続いて困ったとき、神泉苑で弘法大師が祈雨で雨を降らせたことから、神泉苑では密教僧の祈雨修法がさかんに行われるようになりました。

 この出来事は伝説「天長の祈雨」として語り継がれています。天皇から「雨を降らせろ」と勅命を受けた弘法大師が、祈雨の邪魔をした僧の策略を見破って、チベットから「善女竜王」を招き入れ、雨を降らせたという伝説です。

 どうやらこの伝説は当時の権力争いの様子を伝えているようです。伝説からは弘法大師は時の天皇に目をかけられ、大きな権力を握っていたことが分かります。その証拠に弘法大師は平安京遷都の際、国家護衛のために東につくられた「東寺」を嵯峨天皇から下賜(かし)されています。

 しかし、この不思議な伝説と「東寺」が、700年以上も後に、この華やかな神泉苑を救うことになろうとは、誰も想像できなかったことでしょう。

 一方、この時代、神泉苑にかかわった歴史的人物は弘法大師にとどまりませんでした。特に知られているのは、小野流の始祖といわれる小野曼荼羅寺(現在の随心院)ゆかりの仁海僧正と小野小町です。仁海僧正は9回にわたって神泉苑で修法を行い「仁海雨僧正」のあだ名がつき、小野小町は次のような和歌を詠んで雨を降らせ、「しっぽりと 小町も一度は雨に濡れ」と冷やかされたそうです。

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ
             さりとてはまた 天が下とは (小野小町)

 さらに神泉苑は、源義経と静御前が出会った場所であるとも伝えられています。出会った時か否かは不明ですが、静御前は「神泉苑」で舞を行って祈雨をしたそうです。

 このように平安時代の大スターが次々に訪れ、さまざまな物語の舞台となった神泉苑は、当時、一世を風靡していたといっても過言ではないでしょう。

 しかし平安末期、1177年に起こった大風の後は、運命が一変してしまいます。

 大風で荒れた庭園はいったん源頼朝により修復されましたが、1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討幕しようとして敗れた「承久の乱」により、ほとんど壊滅状態になりました。それでも北条泰時が復旧させましたが、1467年、京都が主戦場になった「応仁の乱」で荒れ果て、その後は禁苑だったはずの神泉苑に、田畑や民家がつくられるようになりました。

 かつての華やかな姿は消え失せ、荒れ放題の神泉苑。それでも北東部分にはまだ太古からの湧水「神泉」が湧いていて、そこから流れ出た水が大池を満たしていたそうです。

 ところが1602年、江戸幕府を開いた徳川家康が京に「二条城」を築城するとき「神泉」に注目。この湧水で二条城の内外堀を満たすことになりました。その結果、神泉苑は心臓部である「神泉」はもちろん、周囲の敷地4分の1を二条城内に吸収されたのです。

 心臓部の「神泉」が奪われたのですから、通常であれば「これで長かった歴史が終わった」となったことでしょう。しかし世は捨てたものではありません。そんな神泉苑を救った人がいたのです。

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救世主は「敵側」にいた!

 神泉苑を救ったのは、徳川家康から命じられて二条城の築城にあたった板倉勝重でした。彼はかつての名園の変わり果てた姿を悲しみ、片桐且元(かたぎり・かつもと)や僧たちとともに神泉苑の復興を始め、1607年から1623年にわたって池畔や堂塔を整えていったのです。

 そんな復興の核になったのが「弘法大師」と、あの伝説「天長の祈雨」でした。もともと「神泉苑」は太古の昔から湧き出る「神泉」があったからこそ、つくられた庭園でした。板倉勝重は、その「神泉」に代わるものとして、弘法大師にまつわる祈雨の伝説に注目したと考えられます。

 板倉勝重は、新しい神泉苑の池中に中嶋をつくり、弘法大師が「天長の祈雨」でチベットから招いたとされる「善女竜王」をまつりました。そして、弘法大師に旧縁があることを理由に「東寺」に管轄を委ねたのです(東寺は平安京遷都の際、国家護衛のために東につくられ、弘法大師が天皇から下賜された寺院です)。

 こうして「東寺真言宗の寺院」となった神泉苑。江戸時代に穏やかな日々を過ごしたことは与謝蕪村の句からも連想できます。

名月や 神泉苑の 魚おどる (蕪村)

 その後も、京洛の大火や明治の神仏分離など、さまざまな困難はありましたが生き残り、昭和10年「東寺」とともに、現存する全域が国の文化財として指定されました。

戦後の食糧難にも、食べられなかった神泉苑の鯉。

 私は神泉苑で、地元に住んでいる78歳のおじさん(一見、60代にしか見えないので、“おじさん”と呼ばせていただきます)に会いました。おじさんは最近まで京都のシルバーボランティアとして観光案内をしていたそうです。今は「歳だから」と案内はやめたそうですが、神泉苑には毎日、来ていると言います。

 「すべては、この神泉苑から始まったんや。京都のルーツがここにあるんや」

 おじさんはそういいながら、生まれてから78年間、神泉苑で見てきた出来事を話してくれました。なかでも印象的だった、戦後の食糧難の話をご紹介しましょう。

 「京都は第二次大戦の戦火を免れたから建物は無事やった。だから戦後、アメリカの進駐軍がやってきて二条城に駐留したんや。京都の中心部やから都合よかったんやろう。私は子供やったから、毎日二条城に行って『ギブミーチョコレート』と叫んだものやった。何も食べるものがなかったからな」

 しかし、神泉苑の池にいる鯉にだけは手を出さなかったそうです。

 「ここに、でっかい鯉がいることはもちろん知っとった。でも誰も釣らなかった。住職に怒られるのもあったけど、やっぱり神泉苑の鯉は食べたらあかん。まずいわ(笑)」

 そう言って笑いながら、今も毎日、鯉に餌をやりに来ていると話してくれました。私が最初に見た大きな鯉は、戦後食べられなかったからこそ、今も巨大な姿でここにいるのかもしれません。

神泉苑の「鯉塚」。亀もいるらしい

 「神泉苑は京都のすべてを知っている。祇園祭のときも、山鉾がたったら一等最初に神泉苑にあいさつにやってくる。ここにあいさつしなかったら、巡行できへんからな」

 祇園祭の華やかな山鉾が巡行する前に必ず挨拶に来る。この事実だけを見ても、神泉苑がいかに京都の人々にとって大切な存在であるかが分かります。

世の中、捨てたもんじゃない

 平安京造営とともに華やかに生まれ、平安時代の大スターとともに一世を風靡した神泉苑。江戸時代になって、いよいよ歴史を終えるかと思われたとき、神泉苑を救ったのは敵側にいるはずの板倉勝重でした。しかも、数百年前の弘法大師との旧縁を復活させ、東寺真言宗の寺院として生まれ変わらせたのです。きっと「神泉苑」を残す一番良い方法だったのでしょう。

 天皇の大庭園だった1200年前には、将来「寺院になる」など、誰も想像できなかったと思います。さらに寺院になった今も、昔の歴史は忘れられてはいませんでした。戦後の食糧難にも池の鯉は守られ、祇園祭の山鉾は巡行の前にあいさつを欠かさないのですから。

 世の中、捨てたもんじゃない……言い古された言葉ですが、「神泉苑」はこの言葉をそのまま伝えてくれているようです。あなたも突然、人生が変わるようなことがあったら、一人で「こんなはずじゃ無かった」と嘆いていないで、周りを見渡してみてください。どんな時も、あなたを見ている人がたくさんいるはずです。

 まずはためらわず、「SOS」を発信してみてはどうでしょう。神泉苑が敵側の板倉勝重に救われたように、もしかしたら仲が悪かったり、“敵”だと思っていた人が手を差し伸べてくれるかもしれません。

 さらには、昔の友人を訪ねたり、旧縁を探してみるのも手かもしれません。神泉苑が旧縁で弘法大師の寺院になったように、あなたにもすごい旧縁があるかもしれません。そんなご縁を探しましょう。

 そして最後に、次の一歩を踏み出すために、ぜひ「神泉苑」へ行ってみてください!

(nikkei BP net 2015.9.28掲載)