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column 京都「人生がラク」になるイイ話

ピンチをチャンスに!
寺院が密集した歓楽街「新京極通」の物語

出世の道が閉ざされてしまった……

 会社で理不尽な目に遭うのは日常茶飯事。とはいっても、自分には関係ないことが原因で出世コースから外れてしまうと、「このまま、この会社で働いていても仕方ない」と落ち込んでしまいます。

1.信頼していた上司が派閥争いで負けて、出世の道が閉ざされてしまった。
2.所属部署が、部署ごと別会社に売り飛ばされて、出世どころじゃなくなった。
3.会社が経営統合で大きくなった。でも、元の会社が劣勢なので出世は望めない。

 こんなことが起こると、頑張っていた人ほど無念な思いが抑えられません。「もう、こんな会社、辞めてやる」と辞表を叩きつけたくなりますが、転職先に宛がなく、失業するよりマシかと思い直すものの、ただ悶々とした日々を過ごしてしまいがちです。

 そこで今回は、「落語の祖」が眠る誓願寺(せいがんじ)と、京都市街地でもひときわにぎやかな、新京極通に秘められたイイ話をご紹介しましょう。きっと、「ピンチをチャンスに変えるヒント」が見えてくると思います。

 「普通じゃないところに、とっておきの秘話あり」が、私の魅力発掘の信条です。これは、おもしろい話が眠っていそうだと、早速、行ってみることにしました。

誓願寺

門外からも拝める、春日大明神がつくった阿弥陀如来像

オープンな拝殿で後光を放つ阿弥陀仏像

 まずは、新京極通で最も規模の大きな「誓願寺」へ行くことにしました。

 実は私、中高生のときも「誓願寺」だけは知っていました。というより、「道しるべとして覚えていた」といったほうが正しいでしょう。一緒に遊んでいた悪友たちに「四条通りから、あの寺までの道にある店、寺の向こうにある店」などと、寺の名前も知らないまま、目的の店の位置を説明するためのランドマークにしていたのです。

 しかし、道しるべにしていたのは私だけではなかったようです。門前には「迷子のみちしるべ」と記された石碑があり、警察がなかった江戸末期から明治中期に迷子を捜すため、この石碑に紙を貼って情報交換したというエピソードが語り継がれています。

 「そうか。私だけじゃなかったんだ」とホッとした思いで「誓願寺」の門をくぐろうとしたとき、いきなり後光を放つ(ように見えた)大きな阿弥陀仏像に見据えられた気がしました。誓願寺の拝殿は門の外、つまり繁華街からも見えるように開放されていたのです。しかも、寺への出入りも、拝殿への入場も自由です。まるで、阿弥陀如来像が自ら、寺に出入りする人を監視しているような気がしました。

 私が訪ねた時、拝殿ではちょうど、お坊さんたちが集まってお経が唱えられていましたが、その間も入場制限なく、誰でも自由に出入りすることができました。私のほかにも外国人観光客が団体で入ってきて、「ブラボー」などと歓声を挙げながらパチパチ写真を撮っていましたが、誰も気に留める様子はありませんでした。

これまでに4度も場所を移した誓願寺

 さらに拝殿の天井には、色を変える曼荼羅が不思議な光を放っていました。私はこんなに色が変化する曼荼羅は初めてみました。少なくとも歴史深い古刹には、なかなか無い曼荼羅といえるでしょう。

多彩な色を放つ曼荼羅

 しかし、このオープンで明るい雰囲気こそが、誓願寺の歴史を象徴していたのです。

 誓願寺は、都が平城(奈良)にあった飛鳥時代(592~710年)、天智天皇の命で作られた阿弥陀如来像を本尊にまつる浄土宗西山深草派総本山で、およそ1300年の歴史を誇る古刹です。この阿弥陀如来像には不思議な伝説があります。天智天皇の命で仏像の制作にあたった仏師の親子が、仏像を彫っている間、地蔵菩薩と観音菩薩に姿を変え、闇の中で光を放っていたというのです。それで、この阿弥陀如来像は「春日大明神がつくり給うた」とされ、今日まで人々の厚い信仰を集めてきました。最初に阿弥陀如来菩薩が後光を放っているように見えたのも伝説の所以なのかもしれません。

 誓願寺はその長い歴史の中で4度、場所を移しています。当初は平城(奈良)で開かれましたが都が長岡に移るとともに誓願寺も移され、さらに平安遷都とともに京の一条小川に移されました。そして天正18年(1591年)、豊臣秀吉の命により、現在の場所に移されたのです。

 誓願寺の資料には「秀吉の側室、松の丸殿(京極竜子)の深い信仰により諸大名の奥方にも勧進され、壮大な堂宇が建立された」と記されています。戦国時代に、女性ばかりが集まる寺はちょっと珍しいのでは? と思いきや、やはりそこには当時の女性たちを救う誓願寺の「女人往生」エピソードが隠れていました。

清少納言も、和泉式部も、誓願寺で「女人往生」

 誓願寺の「請願」は、「阿弥陀は一切の人間を隔てなく救うことを願っている」という意味だそうです。天智天皇がそれを賛美して、自ら「誓願寺」と名付けたと伝えられています。これが阿弥陀如来を本尊とする「浄土宗」となり長く信仰されていきますが、実際にその信仰が盛んになったのは平安時代の半ばを過ぎたころでした。そのとき「誓願寺」は、都における根拠地になっていたそうです。

 著名な哲学者・梅原猛さんの著作『京都発見』(小学館)には、次のような一説があります。

 「誓願寺は、いっさいの衆生を漏れなく救い取るという阿弥陀仏の寺であるが、仏教で救われぬ人間と考えられるのは二種ある。それは女人と悪人である。仏教では、女人は愛執の心強く、容易に仏になれぬものと考えられている」

 つまり女性は仏教を信仰していても成仏できない、とされていたのです。しかし、そんな中で「浄土宗」は、最も大切にされている経典のひとつ『感無量寿経』において、「釈迦は韋提希夫人(いだいけぶにん=古代インドのマガダ国王ビンビサーラの王妃)に対して、阿弥陀浄土へ往生することができる」と約束しています。つまり当時は浄土宗だけが、女人も阿弥陀浄土に往生できると説いていたのです。女性が浄土宗を慕い、浄土宗西山深草派総本山の「誓願寺」に集まるのは、当然といえるでしょう。

 誓願寺の「女人往生」については、平安時代の有名な二人の女性のエピソードが語り継がれています。女流作家・清少納言と歌人・和泉式部です。

 清少納言は誓願寺で尼となり、本堂のそばに庵室を結んで往生したそうです。一方、和泉式部は娘に先立たれた哀しみから、播磨(姫路)書写山や石清水八幡宮へ救いを求めたところ「京の誓願寺で祈るべし」とのアドバイスを得て、誓願寺に48日こもり、一心に念仏を唱えました。すると霊夢に老尼が現れて「念仏をとなえれば女人の往生は疑いなし」とのお告げがあり、和泉式部は尼となって庵をむすび、誓願寺でめでたく往生しました。この庵が新京極通にある8つの寺のひとつ「誠心院」です。現在、誓願寺とは別の寺院として独立していますが、当時は誓願寺の中にある庵だったということです。

 松の丸殿や戦国時代の大名の奥方たちが慕うのは当然でしょう。しかし、誓願寺は平安時代、京の一条小川にあったと伝えられています。同じ京都なのに、なぜ、わざわざ秀吉は、今の場所に「誓願寺」を移したのでしょうか。

「落語の祖」安楽庵策伝上人

豊臣秀吉プロデュース、「応仁の乱」復興プロジェクト

 新京極のすぐ隣に、「寺町通」という商店街があります。この「寺町通」の誕生が「誓願寺」をはじめ、他の多くの寺がこの場所に密集している事実に大きくかかわっていました。

 天正18年(1590年)、ほぼ天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、応仁の乱で荒れた京の町の復興を図るために、この場所に宗派を超えて80もの寺院を集め、一大寺町街を造営したのです。秀吉による「京都改造事業」のひとつで、ほかにも京の都を土塁で囲んだ「御土居」と京都に新たな通りの名をつけた「天正の地割」が行われました。「寺町通」の名もこのとき、名づけられました。

 誓願寺がこの場所に移されたのは翌天正19年(1591年)でしたが、寺町造営の一環として、この場所に移されたようです。ちなみに「本能寺」も、信長が討たれた時にあった場所(現在の蛸薬師通小川通西南角)から寺町通に移されています。

 こうして京都の中心部に、寺院が80も集まる「寺町」が誕生しました。寺院があるところには人が集まります。寺町には多くの店が集まり、次第に商店街を形成していきました。それが今の「寺町通」です。寺町通の資料には、「江戸時代になると、寺院が密集したこの地には書物や数珠、文庫、筆、薬などを商う商人や紙や三味線などの職人たちが集まり、商店街として賑わうようになった」と記されています。

「誓願寺」の住職は、「落語の祖」安楽庵策伝

 このころ、誓願寺の住職(浄土宗西山深草派法主)は、「落語の祖」といわれる「安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)」でした。策伝は笑い話が得意で、説教にも笑いを取り入れており、その話をまとめた『醍睡笑(せいすいしょう)』が落語の元になったと伝えられています。

 さらに策伝の説教は落語だけでなく、講談や漫才にも発展したと伝えられています。まさに誓願寺には庶民の笑いの原点があるのです。

 そもそも策伝が説教に笑い話を取り入れたのは、説教を庶民にちゃんと聴いてほしかったからだと伝えられています。しかし果たして、策伝一人の意思でしょうか。この時代、誓願寺を含む寺町には、笑いを求める空気があったのではないでしょうか。応仁の乱から戦国時代の辛い時代を耐えてきた京の人々が、秀吉の復興プロジェクトでようやくにぎやかな商店街を得たのです。そこに心から笑える話を求めて何の不思議もありません。

 誓願寺は平安時代、仏教で救われなかった女性たちを「女人往生」で癒し、応仁の乱から耐えに耐えた庶民の心を「笑い」で癒したのです。誓願寺が今も出入り自由でオープンな雰囲気を保っていることもよくわかります。

扇に願い事を書いて、諸芸成就を祈願

まさかの東京遷都で、まちの起爆剤「新京極通」誕生。

 そして明治時代、京都に再び“ピンチ”が訪れました。日本の首都が東京に移されたのです。千年もの長い間、御所におられた天皇も東京へ去り、京都は寂しくなってしまいました。

 しかし、寂しいままで終わる京都ではありませんでした。

 このとき、京都ではさまざまなプロジェクトが行われています。よく知られているのは、琵琶湖から運河をひいた「琵琶湖疎水」や、町衆が当時の住民自治組織であった「番組」を単位として創設した64の「番組小学校」でしょう。琵琶湖疎水は京都に莫大な経済効果をもたらし、番組小学校は、明治5年(1852年)に国家が創設した学校制度に先立つ、日本初の学区制小学校になりました。

 同時に、京都の町に活気を取り戻すプロジェクトも活発に行われました。その起爆剤として創設されたのが「新京極通」だったのです。

 明治4年(1872年)、京都府参事(現在の知事)植村正直は、当時、寺町通の寺院の境内が縁日に使われていたことに注目し、各寺院の境内を整理して、寺町通の隣に新京極通をつくりました。人々が集まる縁日に新しい通りを通すことで商店街をつくるという、秀吉の京都改造事業を継承するかのような「まちづくりプロジェクト」でした。

 京極という名前には「にぎわうまち」という意味があるそうです。各地にある「○○銀座」のようなもので「新京極」には「新しくにぎわうまち」の意味が込められているのです。

 こうして明治10年(1877年)ころには、芝居小屋や見世物小屋、浄瑠璃、寄席などでにぎわうようになり、明治30年(1897年)には東京の浅草、大阪の千日前とともに「日本の三大盛り場」として知られるようになりました。

ピンチをチャンスに変えるポイント

 「応仁の乱」と「東京遷都」という京都にとっての“二大ピンチ”を克服するために、寺院と歓楽街が共存する、ちょっと珍しい町になった新京極通。しかし、その特性こそが、地元の買い物客や国内外からやって来る観光客にも、老若男女を問わず人を集める魅力になっていることは間違いありません。まさに、ピンチをチャンスに変えたお手本といえるでしょう。

 そこから、「人が集まるところにチャンスあり」というメッセージが聞こえてきます。秀吉が寺町に寺院を集めたのも、植村参事(知事)が寺町の境内を整理して新京極通をつくったのも、目的は「人を集めること」だったからです。そして秀吉がつくった寺町では「誓願寺」から笑いの文化が生まれ、植村参事(知事)がつくった新京極通には寺院と歓楽街が共存した独特の文化が生まれました。

 もちろん、私たちが秀吉や植村参事(知事)のように「人が集まる場所をつくる」ことは、難しいでしょう。しかし「人が集まっている場所」を探すことはできるはずです。

 たとえば、会社で出世の見込みがないなら、地域活動や趣味のサークルに参加してみてはいかがでしょう。人が集まる地域のイベントであなたの隠れた才能が発揮されるかもしれませんし、趣味で秘められたセンスが開花するかもしれません。

 具体的な目標が欲しいなら、ビジネススクールに入ってMBA(経営学修士)取得を目指すのも、資格の学校で、同じ目標を持つ仲間と資格取得に向けて励むのもいいでしょう。

 とにかくピンチに陥ったら、一人で悩んでいないで、人の集まるところを探して飛び込んでみてください。きっと想像もしなかった新しい世界が待っていると思いますよ。

(nikkei BP net 2016.10.13掲載)