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column 京都「人生がラク」になるイイ話

ハメられたら「神対応」でリベンジ!
怨霊になった菅原道真“実家跡”のメッセージ

もしかして、ハメられた?

 人生、一寸先は闇。「最近、うまくいってるな」なんて思っていたら、思いがけない落し穴が待っていたなんてことがあります。たとえば、こんなこと・・・。

1.初めて大役を任された。と思ったら、覚えのないミスの責任を取らされ、外された。
2.最年少の部長に抜擢された。と思ったら、よくわからない理由で左遷された。
3.憧れの人にプロポーズ。その時はOKだったのに、後で突然、断られた。

 こういった時、裏に、信じていた同僚や友達の裏切り行為があったとしたら、あなたはどう思いますか。どんなに穏やかな人でも怒り心頭に発して、「呪ってやる」くらい思ってしまうのではないでしょうか。

その恨み、放っておくと大変なことになります。どんどん増幅して怨霊と化し、顔つきや態度まで悪魔のように変わってしまうかもしれません。そうなったら自分が損するだけです。

 そこで今回は、どうしようもない恨みをスッキリ解消する考え方を、学問の神様・菅原道真から学びたいと思います。キースポットは、かつて道真が家族と住んでいた場所とされる「菅原院天満宮神社」です。

 どんなに腹が立っていても、穏やかな心を取り戻せると思いますよ。

怨霊だった「学問の神様」菅原道真

 菅原道真といえば「学問の神様」として、日本中の人々から慕われています。その人気を裏付けるように、道真こと「天神さま」は、稲荷や八幡さまに次いで全国約1万2000社で祭られています。特に、受験生にとっては、救いの神様そのもの。私もすがる思いで合格祈願をした思い出があります。

 そんな菅原道真が怨霊だった……。この話を聞いたとき、私はびっくりしてしまいましたが、歴史や文化に詳しい人には有名な話だそうです。

 その概要は、「道真は朝廷からひどい目に遭わされたので死後、怨霊になった。そのタタリがすごいものだったので、怨霊を鎮めるために神様として崇められるようになった」という恐るべきもの。菅原道真を「学問の神様」としか思っていなかった私は、ちょっと恥ずかしくなりました。ただ、周囲にいる20~30代の約50人に聞いてみたところ、大半が私よりも知らなかった(菅原道真が「学問の神様」であることも知らなかった)ので、この話、道真のルーツから掘り下げてみることにしました。

 ルーツといえば、やはり生誕地。菅原道真の生誕地といわれる場所は複数ありますが、「怨霊になったのは朝廷からひどい目に遭わされたから」という話を聞いて、「なぜ、この場所にあるのだろう」と不思議に思った「菅原院天満宮神社」へ行くことにしました。

 なぜならこの神社、一番恨んでいるはずの朝廷とゆかりの深い「京都御所」に面した場所に鎮座しているのです。

菅原院天満宮神社

一番に参拝すべき「天神さま」

 「菅原院天満宮神社」は、京都御所を抱く京都御苑「下立売御門」の真正面にあります。 天満宮というだけで、北野天満宮や太宰府天満宮のようなビッグなイメージを持っていましたが、私が訪れた日は、びっくりするほど静かでひっそりとした雰囲気が漂っていました。

菅原院天満宮神社の真正面に京都御苑「下立売御門」

 しかし、ここは道真を祭る由緒深い25社を順拝する「管公聖蹟二十五拝(かんこうせいせきにじゅうごはい)」の第一番に指定されている天満宮なのです。

 それもそのはず、この場所は、菅原道真が実際に家族と住んでいた、いわゆる“実家”といってもいい所。生誕地については諸説あり、こことは断言できませんが、境内には道真が生まれた時に使われた「菅公御初湯の井」があり、父や祖父がともに祭られていることからも、この神社には道真のルーツがあるように感じられます。

 「なんだか、ホッとする神社だなぁ」そんな印象を持ったのは、境内のところどころに参拝者への心遣いやメッセージが書かれているからでしょうか。  

 「管公産湯の井」のそばには水くみどころが設けられており、「この水をお飲みいただき、ご利益をいただかれて、勉強に運動に勤しんでいただければ」と心温まるメッセージが添えられています。

地元の人に提供されている「産湯の井戸水」

 また、境内には「梅丸社」というガン封じの社があり、参拝者に向けて「悪いところを撫でてください」などと記した紙が置かれていました。菅原道真の歴史を知らない人が訪れたら、「道真はなんて温かい神様なのだろう」と思うでしょう。

 私は違和感を覚えました。なぜ、道真を祭る神社がこの場所に、しかも規模の小さな神社として鎮座しているのでしょう。道真の名を京都に残すことが目的なら、この神社より数倍大きな「北野天満宮」がデーンと存在しています。それで十分なのではないでしょうか。

 私はますます、菅原道真の怨霊伝説を掘り下げてみたくなりました。そこでまずは、どんな話なのか、伝説の概要を紹介したいと思います。

ハメられた菅原道真、怨霊と化す

 菅原道真は学者でもありましたが、平安時代の政治家としても活躍していました。しかも、宇多天皇に重用されて寛平の治を支え、醍醐朝では最高機関の太政官のひとつ、右大臣にまで上り詰めたスゴイ政治家だったのです。

 しかし、当時の左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ=主人に悪い告げ口をすること)をされたことで、九州の太宰府へ左遷されてしまいました。この左遷はほとんど流罪といってもいいほど悲惨なものでした。きっと多くの人々が心を痛めたことでしょう。道真の無念さがにじむうたや伝説が今に語り継がれています。

 「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

 このうたは、道真が京を旅立つときに詠んだものとして有名です。

 また、京から太宰府へ行く道真を追って、邸宅に植えられていた梅が飛んでいったという伝説が語り継がれています。「飛梅」という言葉はこの伝説から生まれ、その梅は太宰府に根付いたそうです。現在も太宰府天満宮の神木として親しまれています。

 道真は、左遷されてわずか2年後、太宰府で59歳の生涯を閉じました。失意のもとで非業の死を遂げたといわれるのは、道真が大宰府で著した漢詩集『管家後集』に収められた46編の詩が物語っています。たとえば「九月十日」と題された以下の漢詩からは、彼の哀しみがうかがえます。

去年の今夜 清涼に侍す
秋思の詩篇 独り腸を断つ
恩賜の御衣 今ここに在り
棒持して 毎日余香を拝す(『消された政治家 菅原道真』(平田耿二著/文芸春秋)より引用)

 これは、1年前の9月10日、朝廷の「清涼殿」に招かれたことを思い出した詩で、「秋を思う」と題した詩を醍醐天皇に贈ったところ、醍醐天皇からは、右大臣として「断腸の思い」で激務に明け暮れる道真に、自らの着衣を賜った思い出が綴られています。そして左遷後もその御衣を持っていて、余香を拝していると記されています。

 このように『管家後集』の漢詩には、大宰府での悲惨な暮らしや京を思う哀しさが綴られていますが、醍醐天皇に恨みを抱いたことはなかったようです。『怨霊とは何か』(山田雄司著/中央公論社)にも、以下のように書かれています。

『管家後集』によれば、太宰府においては、望郷の思いを抱き寂しい生活を嘆きながらも、決して醍醐天皇を恨んだりするようなことはなく、仏教に帰依していった。そして延喜三年(903年)2月25日、59歳で生涯を閉じた。(『怨霊とは何か』(山田雄司/中央公論社)より引用)

 つまり、道真は、左遷を嘆いていたけれども、醍醐天皇を恨んではいなかったのです。
 しかしこの後、京で大変な異変が相次いだことで、すべてが「道真のタタリだ」と思われてしまいました。

・まず、讒訴で道真を左遷に追いやった政敵・藤原時平が39歳の若さで病死。
・次に、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が病死。
・さらに、保明親王の息子で皇太孫となった慶頼王も病死。
・その上、朝廷の「清涼殿」が落雷を受け、多くの死傷者を出した「清涼殿落雷事件」勃発。
・その様子を見た醍醐天皇は3カ月後に崩御。

 これだけの異変が続けば、誰もが「これは、ただ事ではない」と思うでしょう。しかも怨霊の存在が信じられていた平安時代のこと。最初の異変が道真を大宰府へ追いやった藤原時平の病死で、その後、醍醐天皇が次々に災難に見舞われたのですから、誰もが「菅原道真の怨霊の仕業だ」と思ってしまったのは当然の成り行きだったのでしょう。

 天に上った道真には、まったく関係ない出来事だったのかもしれませんが……。

道真の怨霊を鎮めよ!朝廷が奔走。

  かくして道真の怨霊が異変を起こしていると信じ込んだ朝廷は、道真の怨霊を鎮めることに奔走しました。

 まずは道真の罪をゆるして贈位を行い、子どもたちも京に呼び返され、職位を右大臣に復し、正二位という高位を贈りました。

 そして雷で多くの死傷者が出たことから、火雷天神が祭られていた京都の北野に「北野天満宮」を建立して道真の怨霊を鎮めようとします。また、道真に「天満大自在天神」という神様の御意を贈ったことから「天神さま」と呼ばれるようになって、道真が埋葬された場所には「太宰府天満宮」が建立されたそうです。

 さらにその後百年ほど、全国で大災害が起こるたびに道真のタタリとして恐れられたというのです。史料には、そのたびに道真の怨霊を鎮めるために「天神さま」を祭る神社が建てられるようになったと記されています。

 台風も洪水も地震も、道真のせいにされたのでしょうか。なんだか道真が可哀そうになってきました。

流れを変えた足利尊氏。秀吉は「北野大茶会」を実施。

 しかしその後、道真は「善神」となります。きっかけを作ったのは足利尊氏でした。北野天満宮の御師職の祖(参拝者を案内したり世話する職の祖)とされる禅陽(ぜんよう)が尊氏に従って、建武3年(1336年)3月の「筑前多々良浜合戦」の際に祈祷を行い、以降勝利を遂げたのです。

 その後、足利将軍家と北野天満宮は密接な関係をもちました。そんな中で次第に怨霊よりも「儒家の神」「詩文の神」のイメージが濃くなっていき、北野天満宮の境内には連歌会所がつくられ、毎月連歌会が催されたそうです。そのうち室町時代における連歌の中心地となり、戦国時代には秀吉が「北野大茶会」を開きました。このときはすでに、文化芸能の中心地になっていたのです。

 江戸時代になると、そんな道真に関する伝記が数多くつくられるようになりました。代表とされるのは江戸時代後期の「管家瑞応録」で、道真の実績がまとめられており、その後の天神信仰に大きな影響を及ぼしたそうです。

 さらに、江戸時代に発達した浄瑠璃や狂言、歌舞伎など様々な芸能が、道真を題材に取り上げたことで、「学問の神様」としてのイメージを確立していきました。

菅原道真公産湯の井戸

「菅原院天満宮神社」から聞こえるメッセージ

 ここまで調べて、改めて「菅原院天満宮神社」が地元の人々に優しく語り掛けるような雰囲気を醸していることが分かるような気がしました。

 道真は怨霊になど、なりたくなかったのではないでしょうか。そして道真の家族は、道真が怨霊になったことに心を痛めたのではないでしょうか。

 もちろん、道真を左遷に追いやった藤原時平が突然亡くなったくらいで留まっていれば、「天罰だ。ざまあみろ」くらいは思ったでしょう。

 でも、道真本人が怨霊になって朝廷にリベンジしているなどと思われたら、どうでしょう。しかも最期まで慕っていた醍醐天皇を呪い殺したり、思い出深い「清涼殿」に雷を落としたと信じられ、その後100年にもわたって、地震や台風などあらゆる天災を道真のせいにされたのです。ちょっとひどいと思いませんか?

 私だったら、心が痛んで居たたまれなかったと思います。

ハメられたら、「神対応」でリベンジ!

 私が訪ねたとき、菅原院天満宮神社の境内では老夫婦がしきりにお腹をさすっていました。ガン封じのご利益があるとされる「梅丸社」に、ご主人が患った大腸ガンが治るようにと、夫婦で祈願されていたのです。

 私は「この神社には、よく来られるのですか?」と、声をかけてみました。すると、「烏丸の天神さんは、私らにほんまに良くしてくれはる。ガン封じのご利益もほんまもんや。産湯の水も、ここでいただいているから、まだ生きさせてもろとるのどすえ」と京ことばで答えてくれました。地元では「烏丸の天神さん」と親しまれているそうです。

 まさに「神対応」ではありませんか。道真は京都御所の目前で、怨霊やタタリではなく「神対応」で地元の人々に慕われていたのです。「学問の神様」というよりも、身近な神様として。これこそが、道真本人や家族のメッセージであり、本当のリベンジなのかもしれません。ちょっとカッコイイとは思いませんか?

私たちもこれからは、道真と同じように、チクられて左遷されたら「神対応」でリベンジしましょう。愚痴や悪口など一切言わず、周りの人たちを思いやり、「なんて素晴らしい人なんだ」と思ってもらう実績を重ねるのです。

 そんな日常は積極的に発信しましょう。道真は漢詩集『菅家後集』で無念な想いを発信しましたが、今はSNSという便利なものがあります。私たちはSNSで日々の「神対応」を発信すればいいのです。

 そのうち、いつのまにか「自分磨き」ができて、左遷した上司やチクッた同僚よりもワンランク高い位置にいる自分に気づくでしょう。もしかしたら意外な昇進があるかもしれませんし、スゴイ会社にスカウトされるかもしれません。そうなったら、もう過去の左遷なんてどうでもよくなります。すべてを忘れて、新しい世界へ一歩を踏み出しましょう。

 ヒドイ目に遭うたびに「神対応」で大きくなって、怨霊よりも高いところから見返してやればいいのですよ。





【参考文献】『消された政治家 菅原道真』(平田耿二著/文春新書)、『怨霊とは何か』(山田雄司著/中央公論新社)、「京都観光ナビ菅原院天満宮神社」「北野天満宮」「太宰府天満宮」ウェブサイト、他

 

(nikkei BP net 2015.11.9掲載)