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column 京都「人生がラク」になるイイ話

ため息ついてる場合か!
一休さん、その反骨人生(前編)

 早いものでもう年末。この時期になると、「今年も終わりかぁ」と一年を振り返り、「来年もこのまま、しんどい仕事に追われるのかぁ」と気が重くなることがあります。そして今の自分がイヤになったり、他人を羨んでしまうことも。そんなあなた、一休さんの教えとともに、晴れやかな新年を迎えましょう。まずは、一休さんの反骨人生、その「前編」をお届けいたします。

こんなはずじゃなかったのに……

 日々仕事に追われるビジネスパーソン。疲労やストレスで、ネガティブ思考の負のスパイラルにはまると「こんなはずじゃなかったのに」とため息ばかりが出て、人生がイヤになってしまいますよね。例えば、以下のような……。

1.もっと勉強して一流大学に入っていれば、今ごろ一流企業のエリートだったのに。
2.就活の時、他の会社を選んでいたら、バカな上司に振り回されずに済んだのに。
3.同級生が医者になって「先生」と呼ばれていた。それに比べて自分は……。

 こんな気持ちのままでは、せっかくのクリスマスもお正月も楽しめません。そこで今回は、「こんなはずじゃなかったのに」を絵に描いたような「一休さん」の生涯と、驚きのエピソードをご紹介します。ため息だらけの人生を打開するキースポットは、一休さんが晩年を過ごした京都府京田辺市の一休寺。都心から離れた静かな環境で、一休さんの教えを今に伝える名刹です。

 そこでため息をついているあなた、今年のうちに心を洗って、一休さんの教えとともに、晴れやかな新年を迎えましょう。

一休寺外観

天皇の隠し子だった一休さん

 一休さんといえば「とんち」を思い浮かべる人は多いでしょう。そのイメージを現代人に刷り込んだのは、なんといっても、1975年から82年まで約7年間にわたり放送された人気テレビアニメ「一休さん」だと思います。

 ♪好き 好き 好き 好き 好きっ好き、一休さん♪という軽快な歌とともに登場するアニメの一休さんは、京都の「安国寺」で修行中の明るくかわいい小坊主さん。将軍の足利義満が頭を抱えるような難題も、見事なとんちで解決してしまう痛快な天才でした。覚えている方も多いでしょう。

 そんな一休さんが、実は後小松天皇の落胤(らくいん=隠し子)だった……この話は有名らしいのですが、子供の頃から、アニメの一休さんに親しんでいた私は、びっくりしてしまいました。アニメの一休さんからは、天皇家のイメージはまったく感じ取れなかったからです。

 しかし、この話が真実だということは、一休さんが晩年を過ごした「一休寺」に行けばわかります。寺院にある一休さんのお墓は宮内庁が御陵墓として管理していて、門扉には菊花の紋が刻まれています。正真正銘、天皇の皇子だったという証拠です。

 だったら、一休さんはなぜ幼くして出家したのでしょう。また、なぜ「とんち」で庶民に親しまれるようになったのでしょうか。隠し子とはいえ天皇の皇子であれば、相応の身分が与えられ、庶民にはほど遠い高貴な暮らしを送れるはずではないでしょうか。

 私はとても違和感を覚えました。違和感のあるところに、とっておきの秘話あり! いつものごとく、興味を掻き立てられた私は早速、一休さんこと一休禅師がどんな人生を歩んでいたのか調べることにしました。

宮内庁の看板

実は、自殺未遂もしていた一休さん

 一休さんの弟子が作った「東海一休和尚年譜」によると、一休さんは後小松天皇と、藤原氏の血を引く南朝の高官の娘との間に生まれた子供だそうです。しかし、一休さんの母は天皇の寵愛(ちょうあい)を受けて身ごもったとき、他の女官たちに「彼女はいつも剣を忍ばせて天皇を狙っている」と讒言(ざんげん)されたことで宮廷を出ざるを得なくなり、宮廷の外でひそかに一休さんを産みました。

 しかも、「天皇の隠し子ゆえに、出家させた方が安全だから」といった理由で、一休さんは6歳のときに出家させられてしまいます。生まれた時から父を知らず、その上、幼くして母とも引き離される辛さは相当なものだったことでしょう。

 しかし、一休さんは京都の安国寺の像外集監(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周健と名付けられます(このとき、まだ「一休」という名ではありません)。史料によるとその後、13歳で漢詩「長門春草」、15歳の時には漢詩「春衣宿花」をつくり、洛中(京都中)の評判になりました。アニメに描かれた「賢い一休さん」は真実だったということでしょう。

 応永17年(1410年)、周健は17歳になり、生涯の師と仰ぐ謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となって、戒名を「宗純」と改めます。謙翁は名声や利益にとらわれず、貧困の中に本物の禅があると説いた僧侶で、周健は謙翁に傾倒し、謙翁もまた周健を認め、かわいがったといいます。一休さんにとって謙翁は、初めて出会った父親のような存在だったのではないでしょうか。

 ところが、一休さんが師事して4年後の応永21年(1414年)、謙翁宗為は亡くなってしまいます。たった4年で、初めて父親のように慕った人が去ってしまったのです。 どんなに辛かったことでしょう。

 実際に、このとき彼は、瀬田川で入水自殺をはかっています。幸いにも自殺は未遂に終わりましたが、心の傷は相当深かったと思われます。もうボロボロだったのではないでしょうか。

 このとき一休さん21歳。いたたまれない21年だったことでしょう。しかしこの後、「とんち」につながる、反骨人生を歩んでいくことになるのです。

子供の頃の一休さん銅像

(nikkei BP net 2015.12.7掲載)