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column 京都「人生がラク」になるイイ話

実は忍者?
二足のわらじ、松尾芭蕉が京都に残した隠密物語(前編)

 人生、何事にも「お金」がかかる。幸せを運んでくるのも、また不安を運んでくるのもお金。経済的な安定を確保した上で、仕事もプライベートも充実させたい……という欲張りなのが現代人の悲しい性というもの? となれば、一つのことに打ち込んでいるだけでは事足りない。「二足のわらじ」の人生を歩もうではないか。あの俳句の神様・松尾芭蕉もそんな生き方を貫いた一人。2回にわたって芭蕉の生き方について考えてみました。

「今年こそは」を現実に

 一年の計は元旦にあり――と、元旦に新年の抱負を抱く人は多いもの。「今年こそは」と新たな計画を立てて一人ウキウキするのも、お正月ならではですね。ちなみに、若いビジネスパーソンは新年にどんな抱負を抱いているのか、2015年1月8日にマイナビニュースが男性会員300人を対象に調査して発表した2015年「今年の抱負」を見ると、こんな感じです。

1位:お金をためる         34.0%
2位:仕事を頑張る         19.0%
3位:プライベートを充実させる   11.0%(マイナビニュース「今年の抱負」2015年1月8日記事より抜粋)

 女性を対象としたデータは2014年に発表されているのですが、プライベートと仕事の比重が逆になる程度で、やはり1位はお金をためることが目標のようです。現代の若い世代において男女間の考え方に大差はないようです。

 つまり、この調査を見る限り、若いビジネスパーソンの目標はまずはお金、その上で仕事とプライベートの充実といったところでしょうか。そうであれば全部一度にゲットできる生き方こそが、最も理想的といえるかもしれません。

 そこで今回は、「実は忍者だった」と噂される俳聖・松尾芭蕉と、芭蕉を尊敬しまくった「画家でもあった俳人」与謝蕪村のエピソードから、お金も仕事もプライベートもみ~んな充実させてしまう二足の草鞋ライフの極意を探ります。

 メッセージを与えてくれるキースポットは、洛北にひっそりとたたずむ「金福寺」。最近では日本人だけでなく、「HAIKU」の名所として外国人観光客の注目を集める一方、女性からも「かわいい猫に会える隠れ寺」として注を集めている「二足のわらじをはく」名刹です。  「新年こそは」と思っているあなた、今のうちに「二足の草鞋ライフ」の極意をゲットしましょう。きっと良い年になりますよ。

実は忍者だった? 謎めいた俳聖・松尾芭蕉

 私は子供のころから忍者が大好きでした。漫画「忍者ハットリ君」や「赤影」など忍者の物語に触れるたびにワクワクして「将来は忍者になりたい」と真剣に思っていました。

 しかし、あの俳聖・松尾芭蕉が忍者だったという説には驚きました。松尾芭蕉といえば、あの「おくのほそ道」を記した俳句の神様ではありませんか。ドロンと消えたり、手裏剣を使ったりする忍者とは、イメージ的に結び付きません。

 ところが、仮に「おくのほそ道」を深堀りしてみても、多くの謎が出てきます。たとえば、裕福ではなかったはずの芭蕉がなぜ、遠い東北や北陸へ行けたのか、長旅の旅費は誰が出したのか、現実的に考えてみると不思議です。

 また、当時46歳だった芭蕉が、険しい山が連なる東北の“道なき道”約2400キロをたった150日で歩き通したというのですから、ものすごい健脚を感じざるを得ません。さらに、江戸時代は庶民が気楽に旅に出られる時代ではなかったはずなのに、芭蕉はどのように関所を“突破”したのでしょうか。考えれば考えるほど、不思議です。

 しかし、このような疑問はすべて「芭蕉は実は忍者であり、幕府の命令で諸藩の動向を内偵するために、全国各地へ出向いた。俳諧師はその隠れ蓑だった」と仮定すると腑に落ちるのです。

 長旅の旅費も幕府が出したと考えれば「なるほど」と思えますし、関所も幕府の手形があれば通過できます。そして何より、道なき道を歩き通した物凄い健脚も、忍者だったら何の不思議もありません。

 そして、「芭蕉忍者説」を何より裏付けているのが、芭蕉が伊賀の出身で、江戸に住んでいたという事実です。

 伊賀は言わずと知れた忍者の里。戦国時代、伊賀忍者はスパイとして活躍していましたが、「本能寺の変」が起こったときは結束して、関西に入っていた徳川家康を守り、三河へ送り届けました。「伊賀越え」といわれる有名なエピソードです。そして、このことを恩儀に感じていた家康は、江戸時代に入ると伊賀忍者をまとめて江戸に呼んで幕府に召し抱え「公儀隠密(こうぎおんみつ)」としたのです。

 今、東京にある地名「半蔵門」は、伊賀から江戸に移り住んだ忍者・服部半蔵にちなんだものであることも、伊賀忍者がいかに大切に扱われていたかを物語っています。

 やはり、松尾芭蕉も「公儀隠密」として各藩の内偵をしていたのではないでしょうか。「おくのほそ道」も幕府が注視していた東北の伊達藩を探るためと考えれば、わざわざ険しい道を歩き通した意味もわかります。

古池や……有名な俳句に漂う“忍者の香り”

 また、有名すぎるこの名句にも忍者の香りがします。

「古池や 蛙(かわず)飛びこむ 水のおと  芭蕉」

 こんなことを言うと、俳句に詳しい方々からは「何を言うか! 俳句を何も知らないド素人がいい加減なことを言うな!」とおしかりを受けてしまうかもしれません。しかし「もし、自分だったら」と考えてみてください。

 史料によれば、松尾芭蕉は江戸では「俳諧(俳句の連句のこと)の宗匠」として著名な存在だったと記録されています。ただ、俳諧を売ったり、授業を行ったりしたところで、全国を行脚できるだけの旅費を稼げるとは思えません。それを裏付けるように、芭蕉は俳諧の先生をする傍ら、神田上水工事の事務職に就いていたという記録が残っています。

 そんなギリギリの生活をしていて、わざわざ俳諧を極めるために、気が遠くなるような「みちのくの長旅」へ出向くでしょうか。しかも、俳諧師としての名声は得ているのです。それを捨てて旅に出るよりも、名声を利用して江戸でさらなるチャンスを求めるのではないでしょうか。

 また「おくのほそ道」は、東北から北陸を回り、最後は伊賀へたどり着いています。ゴールがなぜ「伊賀の里」なのか。故郷といってしまえばそれまでですが、何か隠密の目的があるような気がしてなりません。

 そこで、あえて「俳聖・松尾芭蕉は実は忍者だった」と仮定して、京都に秘められたひとつの物語を探ってみたいと思います。あくまで独自の視点で掘り下げる「仮説」なので、俳句に詳しいみなさま、「そんな見方もあるんだ」くらいに思って、大きな心でお許しください。

芭蕉庵を抱く俳句の聖地「金福寺」

 京都の洛北に「金福寺(こんぷくじ)」というひっそりとした寺院があります。場所は観光客であふれる「詩仙堂」のすぐ近く。しかし「金福寺」に喧噪(けんそう)はありません。休日に訪れても、とても静かです。

静かな「金福寺」本堂

 最近では、かわいい猫に会える「ネコ寺」として、主に女性の人気も集めているそうです。私が訪れた時も、三毛猫の「福ちゃん」が出迎えてくれました。福ちゃんは縁側でのんびり昼寝をしていました。観光客であふれていたら、とてもこんな穏やかに寝てはいられないでしょう。この風景こそが“隠れ寺”ならではの風情なのかもしれません。

金福寺の「福ちゃん」

 江戸を中心に活躍した芭蕉がなぜ、京都のこの寺に「芭蕉庵」を残したのか、またなぜ与謝蕪村がこの寺に眠るのか、それを探るのが私の目的でした。もしかしたら“忍者の一端”がみつかるかもしれません。

(nikkei BP net 2015.12.21掲載)