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column 京都「人生がラク」になるイイ話

1対100でも勝つ!
宮本武蔵の「極意」は合理的な戦法にあり

「心新たに頑張ろう」と言われても……

 いよいよ仕事始め。まだ正月気分が抜けない中、重い体で会社にたどり着くと、始業と同時に社内放送が流れ、社長自ら「心新たに、頑張ろう」と檄(げき)を飛ばす。そんな新年の恒例行事が終わったら、たちまち目の前に昨年から先送りしてきた難題が立ちふさがる。ああ、気が重いなあ……そんなことを思っているビジネスパーソンは多いのではないでしょうか。

 そこで今回は、宮本武蔵が21歳のとき、たった1人で剣術の名門「吉岡家」を破った「一乗寺下り松の決闘」をヒントに、「難題に勝つ極意」を掘り下げてみたいと思います。

 メッセージを発してくれるキースポットは京都市左京区の「八大神社」。決闘の場のすぐ近くにあり、武蔵が立ち寄ったとき、その後の人生に大きな影響を与える悟りを得たという神社です。

 さあ、あなたも武蔵のように、難題を乗り越えて、新たな境地を拓きましょう。

一乗寺下り松の決闘の場所

有名になりたい!勝負に出た武蔵。

 宮本武蔵が著した最も有名な書「五輪書」に、以下の記述があります。

二十一歳にして都へのぼり、
天下の兵法者にあひ、
数度の勝負をけつすといへども、
勝利を得ざるといふ事なし。(「五輪書」序文)

 これは、江戸初期の都で最も権威とされていた剣術の名門「吉岡家」に武蔵が勝負を挑み、数度(記録に残っているところでは3度)戦っていずれも勝利をおさめた、ということです。

 吉岡家とは、代々足利将軍家の将軍指南役を担った剣豪の家で、その家長は都で最も権威のある剣客とされていました。十五代将軍足利義昭が織田信長に追放された後、あまり注目されない時期がありました。しかし、江戸時代になって徳川家康が兵法を好んだことから、全国の諸大名が「兵法者」と呼ばれる優れた剣客を召し抱えるようになったため、吉岡家に弟子入りして兵法を習得し、少しでも待遇の良い大名家へ就職しようとする若者も多かったようです。

 こうして江戸時代初期の吉岡家は、単なる「家」ではなく、多くの門下生を抱える「兵法所」になっていました。今なら、有名なカリスマが経営する専門学校のようなものでしょう。当時の門下生の数は数百人を超えていたと記録されています。

 武蔵はそんな吉岡家のトップ吉岡清十郎に勝負を挑みました。

 具体的には、挑戦状を送るだけでなく、挑戦状と同じ内容の文書を三条大橋のそばに高札をもって掲げるという派手な方法をとりました。おそらく、ただの無名の若者にすぎなかった武蔵の挑戦を、カリスマである吉岡清十郎がすぐに受けるとは思えなかったからでしょう。同時に、「万人周知のもと、カリスマを倒して一躍、有名になってやる」という武蔵の野望も感じます。

一乗寺下り松の決闘で、武蔵が待機した松(現在は4代目)

カリスマを倒した武蔵の“意外”な戦法

 とにかく吉岡清十郎は、三条大橋の高札で“公表された挑戦”を無視するわけにはいきませんでした。いったん京都所司代(京都の治安を維持する機関=今の警察のようなもの)に届けましたが、許されたため、この挑戦を受けることにしたようです。

 ここから先の勝負の内容については様々な説があり、どれが正しいかは分かりませんが、史料に共通した事実のみに絞り、その特徴に注目していきましょう。

1:意外な遅刻。カリスマ吉岡清十郎との決闘の場に、挑戦者である武蔵は遅れてきた。
2:意外な兵法。武蔵は木刀を用い、後に二刀流となる新しい兵法で清十郎を一撃した。
3:意外な勝利。武蔵はカリスマ吉岡清十郎に、たった一撃で勝った。

 このように、武蔵の“意外”な戦法が、カリスマを倒したといえるでしょう。特に吉岡清十郎には予想できなかった心理作戦(遅刻)と兵法(後の二刀流)が、勝利につながったといえます。

 吉岡清十郎はこの上ないショックを受けたことでしょう。この後、一命をとりとめたものの剣の道を捨て、出家しています。

 その後、清十郎の仇(あだ)討ちと銘打って、弟の吉岡伝七郎が決闘を挑んできましたが、武蔵は同じように遅刻し、木刀を使った一撃で勝利しました。これが有名な「三十三間堂」を舞台にした決闘で、このとき吉岡伝七郎は命を失っています。

仏神を尊んで仏神を恃まず

 突然現れた無名の若者に、カリスマである家長もその弟も倒されてしまった吉岡家。どんなに悔しかったことでしょう。名門のブランドは地に堕ち、吉岡家の怒りが頂点に達したことは容易に想像できます。

 そこで吉岡家は、門下生が一丸となって、武蔵に決闘を申し込みました。これが、何度も映画やドラマにも描かれた「一乗寺下り松の決闘」です。

 このとき「一緒に戦う」と志願した吉岡門下生は100人規模におよび、剣だけでなく、弓矢や鉄砲まで用意して武蔵を倒そうとしました。こうなるともう決闘ではなく「戦」といった方が正しいでしょう。

 このとき、武蔵にはすでに弟子がいて、吉岡家の動向は逐一、弟子が武蔵に伝えていたそうです。名門・吉岡家を2度も破った武蔵は目論見どおり名声を得ていたのでしょう。

 吉岡門下生が100人規模で集まり、弓矢や鉄砲まで使って自分を殺そうとしている――。この事実が、まだ21歳の武蔵に重くのしかからないわけはありません。というより経験を積んだ剣豪でも恐れたことでしょう。剣での勝負ならまだしも、鉄砲には太刀打ちできないことは戦国時代、織田信長が無敵とされた武田軍を鉄砲で破った「長篠の戦い」でも実証されています。

 「死ぬかもしれない」武蔵がそう思ったのは当然のことでしょう。弟子たちが助勢するという申し出も聞かず、1人で決闘の場「一乗寺下り松」へと向かい、その途中、決闘の場の近くにある「八大神社」へ立ち寄っています。「神様に助けてほしい」そう思ったのも、至極当然だと思います。

 しかし、武蔵は社殿に進み、鰐口(わにぐち)を鳴らそうとして、祈るのを止めています。そして後に名言となる以下の言葉を残しました。

我、仏神を貴んで仏神を恃まず    宮本武蔵著「独行道」

 仏や神は尊ぶべきもので、頼ってはいけないという意味です。21歳の若さでよくここまで悟ることができたものだと思いますが、このときの武蔵について、司馬遼太郎氏は著書「宮本武蔵」の中で、以下のように解説しています。

戦国期を経過したこの当時の日本人の気質は、すでに中世初頭のひとびとのような超自然力に対する信仰がうすれている。神仏は実在せぬと一面でおもい、一面でそれを叶わぬまでもすがろうとする半懐疑の心情をすてていない。その半懐疑は人間の弱さの投影であることを、兵法という合理性そのものにみちた思考法のなかにいるこの若者は十分に知っていた。その弱さを殺さねば戦いに勝てぬであろう。司馬遼太郎著「宮本武蔵」(朝日文庫)より引用

 「神様に頼りたい」その心を改めたのは、兵法の合理的な考え方だったのです。兵法とは戦いにいかに勝つかを、様々な方向から緻密に分析し、計画を立てて実行すること。そこに「神頼み」という選択肢はありません。

 そして、このときの悟りが、その直後、歴史に残る大勝利を生み、若き武蔵を「絶対勝利」の剣豪へと導いたのです。

八大神社の宮本武蔵像

たった1人で100人の敵に勝つ!その極意とは

 武蔵は「八大神社」を出て決闘の場である「一乗寺下り松」へ行き、その結果、たった1人で100人規模の吉岡門下生軍団に勝つという歴史的快挙を成し遂げます。

 資料によると、その経過は、以下のようにまとめられます。わかりやすくポイントだけを抜粋する形で列記してみましょう。

八大神社

1:想定外の待機。「遅刻」すると思い込んでいる敵を「待機」していた。
2:想定外の急襲。敵の将が子供であることから、来る場所を見越し、待ち受けて急襲した。
3:想定外のPR。行く先々で「100人規模の吉岡門下生に勝った」と言い降らした。

 つまり、武蔵は過去2回の決闘で「遅刻するに決まっている」と敵が思い込んでいることを見越し、敵より早く来て「待機」していた。そして敵の将がまだ子供であることから「ここに来るだろう」と見当をつけ、そこにやって来たまだ子供の将を急襲して倒して勝った。言い換えれば、100人規模の敵と正面から戦ったのではなく、「敵の将を討ち取ったら勝ち」という兵法にのっとって勝利を得たのです。実に考え抜かれた合理的な戦法です。

 ちなみに吉岡門下生たちが、将を討たれたことに気づき動揺したのは、武蔵が去ってしばらくたってからのことだったそうです。

 この戦法は、織田信長が今川義元を破った「桶狭間の戦い」にも通じています。このとき信長は2万5000人ともいわれる今川軍を少数の軍で倒すために、本軍を急襲して将である義元を討つ作戦で勝利しました。

 武蔵が信長の戦法を参考にしたか否かはわかりませんが、過去の戦法を研究し尽くしていたことは否めないでしょう。武蔵の戦法は「備えあれば憂いなし」を徹底しており、事実「五輪書」には、以下の名言を残しています。

千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす。 「五輪書」水の巻

 この名言は「鍛錬」の語源となっています。具体的には「鍛」は基礎が定着することで、「錬」は一つの道として揺るぎなく完成することを意味し、「鍛」には千日(約3年)を要し、「錬」には万日(約30年)を要すると説いているのです。

 さて、「一乗寺下り松の決闘」で勝った武蔵は、そのまま京を去りました。そして、行く先々で「私は100人規模の吉岡門下生たちとの決闘に勝利した」と言いふらしたと伝えられています。

 剣豪といえば「寡黙で、あまり動じない人物」といったイメージを持ってしまいがちですが、兵法を重んじた武蔵という面から見ると、自分の功績を積極的にPRしたことは当然でしょう。情報戦略は兵法の基本であり、「勝利」を積極的に社会に伝えることは武蔵の目的を達するために必須だったと考えられます。

 その証拠に、武蔵の名声はますます高まりました。一方、吉岡家は結果的に、武蔵の名声を高めるためのお膳立てをしたに過ぎなくなってしまいました。その後、吉岡家は断絶したという説と「染物」で存続したという説がありますが、いずれにしても剣術の名門という看板は外さざるを得なかったようです。

八大神社の境内

武蔵の戦法を真似てみよう

 宮本武蔵の「一乗寺下り松の決闘」は、「たった1人で軍を打ち破る」という意外性をはらんだヒーロー伝説として、何度も映画やドラマで描かれました。最近では、吉川英治の小説「宮本武蔵」を原作とした漫画「バガボンド」(井上雄彦著)が大ヒットしましたから、若いビジネスパーソンにも「ああ、あのシーンか」と思い当たる人は多いことでしょう。

 しかし、こうして深堀りしてみると、兵法を礎として武蔵がいかに敵を調べ尽くし、いかに緻密な作戦を練っていたかがわかります。

 そこで、武蔵が「一乗寺下り松の決闘」で使った戦法を、私たちのビジネスライフに生かせないか考えてみました。

【1】「遅刻」を「待機」に変えてみる
 これまで遅刻常習犯だったあなた、もしくは始業ギリギリに飛び込こんでいたあなたも、これを機に誰よりも早く出社して、上司を「待機」してみませんか? 上司のあなたへの評価が変わること請け合いです。

【2】相手の「将」を急襲する
 これまでプレゼンを繰り返してきたのに、埒(らち)が開かずに困っているあなた、武蔵のように相手の「将」を狙ってみませんか? もちろんビジネスの場ではなかなか会えないでしょうが、「私人」としてだったら結構チャンスはあります。たとえば、取引先の社長のプライベートシーンにトレーニングジム、自治会、子供のPTAなど、自分が入りこめる接点がないかを細かく調べるのです。最近ではSNSもそのひとつかもしれません。そういえば、この戦法がいかに効果的かは映画「釣りバカ日記」でもお馴染みですね。やってみる価値あるかも。

【3】手柄を積極的にPRする
 自分の手柄を自分でPRするなんて「いやぁ、そんなことできないよ」という人、多いでしょう。日本社会において自慢ほどうっとうしいと思われることはありませんから。でも一歩引いて考えてみれば、今の時代、ツイッターやFacebookで自慢するのは当たり前。目の前で自慢されるのはうっとうしいけどSNS上だったら許されるという不思議な空気ができています。だからあなたも、SNSで手柄を自慢してみましょう。文章にするのは気が引けてもSNSでは「ユニークな写真」がキーポイント。写真でさりげなく、手柄をPRすればいいのです。

 最後に、武蔵が「仏神を尊んで仏神を恃まず」と悟った「八大神社」のおみくじをご紹介しましょう。私がひいたのはうれしいことに「大吉」でしたが、その解説に、「神仏を尊んで、神仏を恃まず」(「五輪書」の言葉と、仏と神の順番が逆)と書かれていました。

 つまり、あなたは「大吉」を引いたけれども、神様に頼っていてはいけないよ、という意味です。神様から「頼るなよ」といわれてしまうと心の支えを外されるような気がしますが、それだけ武蔵の悟りは神様からみても正しく、人のためになるということでしょう。

 だから初詣でおみくじを引いたあなた、その結果が良くても悪くても、これからは神様に頼らず、武蔵のように緻密な作戦で飛躍してください。

皆さんの2016年が良い年になりますように。

八大神社のおみくじ

【参考資料】
 司馬遼太郎「宮本武蔵」(朝日文庫)
 吉川英治「宮本武蔵 第四巻」(新潮文庫)
 宮本武蔵「五輪書」現代語訳版サイト
 「八大神社」公式サイトほか

(nikkei BP net 2016.1.5掲載)