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column 京都「人生がラク」になるイイ話

やられたら、死んでも、やり返す!
明智光秀“闇”のリベンジ

人事異動が気になる季節。ハラハラしていませんか?

 2月も後半に差しかかり、そろそろ年度末。ビジネスパーソンにとっては春の人事異動が気になるシーズンになりました。3月に出される内示を前に、落ち着かない人も多いのではないでしょうか。

 そこで今回は、織田信長の人事異動(というよりリストラ?)にハラハラしすぎて、ついに「本能寺の変」を起こしてしまった明智光秀の「第二の人生」を堀り下げてみたいと思います。

 「え、なんで? 明智光秀は本能寺の変のあと、すぐに死んだはずじゃなかったの?」と言う人は多いでしょう。歴史上、明智光秀は本能寺の変のわずか11日後の1582年(天正10年)6月13日、「中国大返し」で舞い戻った秀吉と「山崎の合戦」を戦って敗北し、深い山中をさまよいながら本拠地の坂本城へ向かう途中、落武者狩に遭って、命を落としたということになっています。

 しかし一方で、「明智光秀は実は生き延びて、比叡山に身を隠し、南光坊天海(この後、天海と呼ばせていただきます)という僧となって徳川家康の参謀を務めた」という説もささやかれ続けてきました。ただ、もし光秀が天海だったとすれば116歳くらいまで生きたことになるため、現実的にはあり得ないだろうとされてきました。

 ところが、家康を祭る「東照宮」を抱く京都の「金地院」を訪ねたとき、私はたちまち、その説を深掘りしてみたくなりました。

 内部にある「東照宮」の入り口に、でっかい「明智門」が構えていたからです。

「金地院」外観

徳川家康と「黒衣の宰相」天海

 天海といえば家康の側近中の側近で、「黒衣の宰相」(権力者の名参謀)として知られています。また家康は臨終の際、枕元に呼んで遺言を告げたほど、天海を信頼していました。その絆は強く、天海は家康の死後、遺言を忠実に守り、家康を祭る「東照宮」を建立するために尽力しています。

 ちなみに「東照宮」は現在も全国に多くありますが、家康が死を目前に、天海と金地院崇伝(こんちいんすうでん)、本多正純を呼び、次のように遺言したことにより、建立されたのが始まりと伝えられています。

『(自分の遺体は)久能山に納め、御法会を江戸増上寺、靈牌は三州大樹寺、御周忌終て下野国日光山へ小堂を營造、京都には金地院に小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし。』(徳川実紀<台徳院殿御実紀四十二巻>より引用)

 つまり、家康は自分を神として祭り、死後も諸大名に拝ませるように言い残したのです。おそらく自分が神になれば謀反(むほん)も起こらず、徳川の世は安泰だと考えたのでしょう。

 幕府は、この遺言に従って1616年(元和2年)、家康の死とともに遺体を静岡の久能山に葬り「久能山東照社」を建立、翌年には朝廷が「東照大権現」の神号を宣下し、家康は神格化して「東照大権現」になりました。

 続いて、家康の一周忌には日光にも社をつくり、2つの東照大権現が誕生しました。後に宮廷からの宣下を受けて「久能山東照宮」「日光東照宮」と呼ばれるようになりましたが、その時には、全国の諸大名が自分の領地にも次々と家康を祭る社をつくっていたため、一時は500~700社も「東照宮」ができたと記録されています。こうして、家康の遺言はしっかり守られたのです。

 しかし遺言の最後に示されている「京都の金地院に小堂を営み」について、私はピンときませんでした。京都に東照宮があるということを、知らなかったのです。

金地院の中にある「東照宮」

京都にもあった「東照宮」は謎だらけ

 私が「金地院」を訪れたのは、とても天気の良い2月の日曜日の昼下がりで、「金地院」を抱く南禅寺界隈は観光客であふれていました。しかし、金地院には私のほかに観光客らしき人が見当たらず、不思議なくらい静寂に包まれていました。

 目指す東照宮は、明智門(これには、本当に驚きました)から歩いてすぐのところにありました。江戸時代に建立されてからまったく変わっていないかのような風情を醸し、古さの中に威厳を保っていました。

 その威厳に圧倒されながら進むと、そこには伏見城から移築されたという方丈があり、小堀遠州作の見事な庭が広がっています。ほかに観光客が一人もいなかったため、私は方丈に座り、「いったい何百年ここにあるの?」と言いたくなるような襖絵や調度品を眺めながら、金地院に関する史料に目を通しました。

静まり返った「金地院」内部

 すると、家康の遺言を直接聞いた3人のうち、2人が京都の「金地院」に深くかかわっていたことが改めてわかりました。天海と金地院崇伝です。この名が表すように「金地院」とは金地院崇伝が住んでいた寺で、崇伝は室町時代、北山に開創されたこの寺を現在の南禅寺に移して住持したそうです。

 金地院崇伝は、天海とともに「黒衣の宰相」と呼ばれた家康の側近です。「大坂夏の陣」のキッカケとなった「方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)※」も、実は天海と崇伝が仕掛けたものだと伝えられています。

※「方広寺鐘銘事件」=家康の勧めで豊臣秀頼が「方広寺大仏」を建立した際、その鐘 に書かれた「国家安康」の文字が家康の名を分断して徳川家を呪っており、「君臣豊楽」の文字には豊臣家の安楽への祈願が現れているとし、これを理由に「大坂夏の陣」が始まったとされる事件。

 「黒衣の宰相」とは、なんとも知恵が働くものですね。

 そして「知恵」といえば、明智光秀も「知将」として有名です。もし、天海が光秀だとしたら、その「知恵袋」を徳川家康が密かに活用していたと考えても、何の不思議もありません。

 晴れた日曜日の午後、あふれる観光客でにぎわう南禅寺の中で、タイムスリップしたかのように静まり返る「金地院」。その不思議な雰囲気の中にたたずむ、謎めいた「明智門」。豊臣家の運命を決めた「方広寺鐘銘事件」を仕掛けたエピソードと、時空を超えてきたかのような古すぎる部屋と調度品たち……。私は「金地院」には、びっくりするような謎が隠れているような気がしました。

小堀遠州作の庭園

そもそも、なぜ「明智門」を移築したの?

 なかでも、どうしても気になるのが「明智門」の存在です。

謎の「明智門」

 

 金地院の説明書には、江戸時代まで金地院にあった国宝の唐門が豊国神社に移されたため、明智光秀がかつて大徳寺に建立した「明智門」をここに移築したとありますが、なぜ、わざわざ「明智門」だったのでしょうか。移築するなら他にも立派な門はあったはず。現に金地院の方丈は、伏見城の一部が移築されたものです。

 また、金地院が禅寺であることを考えると、禅の教えでは縁(えにし)は非常に大切なものと考えられているはずなので、何かの縁がなければ移築など考えないように思えてくるのです。しかも、「明智門」は最も目立つ東照宮の入り口に構える大門です。よほどの縁がなければ、移築など考えないのが普通ではないでしょうか。

 百歩譲って、「明治初期の混乱期だから、手ごろなものを持ってきた」のだとしても、わざわざ「明智門」という名を遺すでしょうか。移築後、名前を変えても、別に良かったのではないかと思うのです。

 そんなことを考えているうちに、「明智門」には深い意味があるような気がしてきました。もしかしたら裏には、光秀が天海になった真実が隠されているのではないでしょうか。そこで、「光秀=天海説」をひととおり見直してみることにしました。

意味深な「東照公遺訓」

光秀が天海だったら、すべての謎が解ける!

「光秀=天海説」の大筋は以下のとおりです(戦国ファンの皆さまへ。概略なので、表現が非常に大ざっぱで説明不足のところも多々あると思いますが、ご容赦ください)。

1:山崎の戦いの後、明智光秀は山中で落ち武者狩りに遭って死んだとされているが、実は生き延びて、比叡山に身を隠した。
→ 光秀ほどの武将だったら、秀吉に負けたとき、潔く切腹するのが当時の常識。山中をさまようなんてあり得ない。そもそも、光秀の首実検はされておらず、本当に死んだ確証はない。おそらく落ち武者狩りに遭ったのは「影武者」だ。比叡山は信長に焼き討ちにあった経緯から、光秀をかくまってもおかしくない。
(物証)比叡山にはなんと、明智光秀から寄進された石灯籠がある! しかも、寄進の日付は慶長20年2月17日。光秀はとっくに死んでいるはずの日である!


2:天海が歴史の舞台に現れたのは、秀吉の死後。しかも、家康とは初対面から密室で4時間もの間、二人きりで話し合っていたと記録されている。まったく初対面の僧と家康が話し込むなど考えられない。しかし、天海が光秀だったら、その謎も解ける。
→ 山崎の合戦からの経緯上、光秀は秀吉に見つかると非常にまずいことになる。だから、秀吉の死を見計らって、再び表に出てきた。家康は光秀の知将ぶりを買っていたと伝えられている。その光秀が天海となって表れたとしたら、初対面から「豊臣家滅亡に向けて手を組もう」と話し合ったことは想像に難くない。


3:後に「春日局」となったお福は、光秀の重臣・斉藤利三の娘であり、徳川家光の乳母に推薦したのは天海だった。しかも「公募」で選ばれて、乳母になっている。これは、実は、家光が家康とお福の子であり(そう仕向けたのも光秀で)、未来の将軍に光秀がつながろうとした策略である。
→ 将軍家の嫡男の乳母を「公募」で決めるなどあり得ない。これは光秀が真実を隠そうとしたからだ。そう考えれば、実の母であるはずのお江が、長男であるにもかかわらず、家光が将軍になるのを阻止しようとした有名なエピソードにも頷ける。また、春日局が家光を将軍にするために家康に直訴したというエピソードも納得できる。隠居の身とはいえ、家康がただの乳母にそう簡単に会うなど考えられないし、増してやその訴えを素直に聞くなど、あり得ないことである。

 そして極め付けが「徳川家光」の「家光」は、家康と光秀の名前から一文字ずつとってつけたというエピソードです。つまり、「光秀=天海説」が本当だとしたら、明智光秀は最後に「みずから将軍をつくって、陰ながら天下をとった」ということになるのです。

 「光秀=天海説」を裏付ける物証は、世界遺産にも登録された「日光東照宮」にも残されています。

 日光東照宮は、天海が家康から「日光山貫主」を拝命したところで、家康の死後、遺言に従って、1617年(元和3年)「元和の造営」を完成し、現在の「東照宮」の基礎をつくりました。その後、家光が「寛永の大造替」を行い、1645年(正保2年)宮廷の宣下を受けて、「日光東照宮」になっています。

 そんな日光東照宮には、なぜか桔梗の紋が見受けられます。桔梗の紋といえば、明智光秀のご紋です。そのうえ天海は、日光東照宮にある見晴らしの良い高台を「明智平」と名付けたというのです。

 これは、「最終的には、明智光秀が天下をとったのだ」と後世に残すためのマーキングではないでしょうか。京都「金地院」の「明智門」も、そんな天海の思いを知っていた金地院の誰かが、移築したと考えれば納得できます。

 あっぱれ、明智光秀!

 いったん“死んだ”と見せかけ、実は天海に生まれ変わり、宿敵・秀吉が築いた豊臣家を潰し、家康を天下人に押し上げ、そのうえ“その孫をつくって”自分の名前を受け継がせ、陰で天下を取ったのです。

 
 これこそ「やられたら、死んでも、やり返す」史上最大のリベンジではないでしょうか。

明智流リベンジで、人事異動を生き抜け!

 この明智流リベンジ、私たちにも活用できるかもしれません。

 たとえば、もうすぐやってくる人事異動の内示。もし、不本意なものだったとしても、明智流リベンジの手法を使えば、かえって「人生がラク」になります。

 光秀は信長のリストラを恐れて「本能寺の変」を起こし、いったん“死んだ”ことにせざるを得ませんでしたが、私たちはそこまでする必要はありません。まずは、その内示を受け入れて、素直に新しい部署に行きましょう。そして“まるで死んだように”身を潜めながら、華々しく活躍するエリートを陰でサポートするのです。

 もちろん、天海が家康の名参謀だったように、あなたも上司や同僚が出世するための情報収集や裏工作に力を貸しましょう。そして、豊臣家が滅ぼされたように、自分を不本意な部署に追いやった上司に仕返ししてやりましょう。

 そのあと折を見て、狙ったエリートのプライベートにも入り込みます。彼が独身なら、天海こと光秀が、重臣の娘のお福に家康の子(=後の家光)を産ませたように(確定した言い方になってすみません。とりあえず、そう仮定させてください)、あなたも合コンを企画したり、知り合いの美女を紹介したりして、二人が結ばれるお世話をしてあげるといいかもしれません。

 それが成功したら、紹介した彼女に「あなたはキューピットね」なんて言ってもらえるでしょうから、堂々と新居に遊びに行き、子供とも仲良くなりましょう。家族ぐるみのお付き合いが始まったら、こっちのもの。そのころ大出世しているはずのエリートに「自分の希望する部署への異動に力を貸してほしい」と素直にお願いしたらいいのです。もちろん、子供にも味方してもらいましょう。

 ただ、自分が陰でリベンジしていることを絶対に知られてはいけません。「光秀が天海だったら年齢的に合わない」と世間が思っているように、あなたもエリートと仲良くしていることを悟られないよう、内緒の交際を仕掛けましょう。

 えっ、年齢的に合わないという事実は、仕掛けでは作れないって?

 その点、私は女性ですから、年齢をごまかすことはそう難しいとは思えません。もし、「20歳も若く見える」と言われたら、きっと20歳くらい、簡単に誤魔化してしまうでしょう。そもそも、天海の素性はよくわからないのです。だったら、年齢をごまかすことはそれほど難しくないように、女性には思えてしまうのですよ。

 ……なんて、かなり勝手なことを書きましたが、あくまで「そんな考え方や生き方もあるんだ」くらいの気持ちで読んでいただけたならうれしいです。

 みなさまの“人事”が、うまくいきますように!


【参考資料】
・「金地院」「日光東照宮」「久能山東照宮」公式パンフレット、公式サイト
・「俊英 明智光秀」(学研/歴史群像シリーズ戦国コレクション)
・NHK歴史秘話ヒストリア「本能寺の変 明智光秀と家族の運命」 ほか

(nikkei BP net 2016.2.15掲載)