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column 京都「人生がラク」になるイイ話

春日局はお江の一番の理解者?
「大奥」誕生に潜む“デマ”の極意【前編】

 とかく人は「噂」に惑わされるもの。しかし、真実は真逆ということもしばしば。時には「本当にそうだろうか……」と疑ってみることも大切です。そこで今回は、「春日局」のエピソードを題材に、デマや噂の怖さについてお話しします。まずはその「前編」から。

怪しい噂に惑わされていませんか?

 いよいよ年度末。4月からスタートする新年度に向けて、社内にさまざまな噂があふれる季節です。人事異動や新プロジェクト、もしかしたら会社が新体制に生まれ変わるなんて噂も飛び交っているかもしれません。

 特に昨今、「マイナス金利」のような、これまで絵空事だったものが次々に現実になっているので、「ちょっと信じられないなぁ」と思う噂も「もしかしたら」と気になってしまうものです。

 ただ、そんな噂に惑わされた揚げ句、気が付いたら自分だけ置いてきぼりを食わされていた、なんてこともあるので要注意。「自分はバカだった……」と後悔しても後の祭りです。ここは自分の身を守るためにも、飛び交う噂が本当なのか、デマなのか見極めたいものですね。

 そこで今回は、厳しい身分制度が敷かれていた江戸時代、ただの乳母なのに天下の将軍御台所と将軍の跡目争いで対立した(と言われている)「春日局」の真実に迫りたいと思います。というのも、最近になってこのエピソードは“嘘”だったという説もささやかれ始めているからです。

 改めて考えてみれば、そもそも乳母が天下の御台所に反発できるなんて不思議なこと。それなのになぜ、これまで「真実」として語り継がれ、映画やドラマにも描かれ続けたのでしょうか?

 そこで、まず私は京都の「金戒光明寺」へ行くことにしました。

金戒光明寺

 金戒光明寺は知恩院に並ぶ浄土宗大本山であり、江戸末期にはあの新選組が発祥したと伝わるエピソード満載の寺院。その上この寺には、将軍の跡継ぎを巡って激しく争ったはずの、お江(将軍・徳川秀忠の御台所)と春日局の供養塔が寄り添うように建っているのです。

そもそも、春日局は将軍御台所に反発できたのか

 金戒光明寺は京都市左京区の「くろ谷」と呼ばれるところに鎮座する巨大な寺院です。数えきれないほど多くの墓が立ち並び、私が訪れた日曜日の午後も、晴れているにもかかわらず、ひっそりと静まり返っていました。

お江と春日局の供養塔が経つ静かな墓地

 お江と春日局の供養塔は、その墓地の入口付近にありました。

 私は、寄り添うように建つ二人の供養塔を見て、まず「そもそも、春日局は本当にお江と対立できたのだろうか」という疑問を感じました。江戸時代の人々には「徳川様には逆らえない」という価値観が根付いているはずだからです。「葵のご紋が目に入らぬか!」の一言だけで全員がひれ伏す「水戸黄門」の名シーンも、この価値観があったからこそ生まれたのではないでしょうか。

 そこでまずは、「春日局」のことをあまり知らない方のために、有名なエピソード「三代将軍・家光が誕生するまでの跡継ぎ争い」について、簡単にご紹介しましょう。

 事の発端は、二代将軍・徳川秀忠と正室・お江の間に初めて嫡男・竹千代(後の家光)が生まれ、その乳母として後に「春日局」となる「お福」が選ばれたこと。その後、お福は竹千代をわが子のように大切に育て、家光もお福を慕っていた。しかし、秀忠とお江の間に次男・国松が生まれ、お江がその国松を溺愛したことから事態は暗転。

 二代将軍・秀忠と御台所・お江が次男の国松に、三代将軍を継がせようと画策を始めたため、竹千代の乳母であるお福は、大御所・徳川家康に直訴するというスゴイ行動に出た。家康はお福の直訴を受け、鷹狩りと称して江戸城へ赴き「三代将軍は、長男の竹千代だ」と、秀忠とお江に告げた。これにより三代将軍は竹千代に決まり、その後、徳川家光となった。

 お福は、朝廷から「春日局」の称号を賜り、「大奥」を組織体系化して取り仕切り、家光にも影響力を持つ“女帝”になった。


跡継ぎ争いのエピソードは疑問点だらけ

 このエピソードは、前回の「やられたら死んでもやり返す 明智光秀“闇”のリベンジ」にも書いたとおり疑問点だらけです。

 天下人の徳川家康が、ただの乳母にすぎないお福に直接会うということも、さらにその乳母の言うことを素直に聞いたという話も、当時の身分制度ではあり得ないといった方が正しいでしょう。そんな疑問から、前回は「家光は、実は家康とお福の子供だった。そう仕向けたのは、天海に生まれ変わった明智光秀だった」という説の方が、真実味があると紹介しました。

 今回さらに調べてみたところ、歴史専門家の間では最近「お江とお福が将軍の跡継ぎ争いをした」というエピソードそのものが、後から作られた逸話であるという説が有力になっていることを知りました。最も大きな理由は、徳川将軍家の正式な記録「徳川実紀」や「駿府略記」をはじめとする、信頼できる徳川家の史料に、そのようなエピソードなどどこにも記されていないことだそうです。さらに、お江が自ら育てて溺愛したと伝わる国松にも、ちゃんと乳母・朝倉局がいたことがわかりました。

 そもそも当時、将軍の正室は跡継ぎをできるだけ多く産むことが求められていたため、自分で子供を育てることができませんでした。授乳中は排卵が抑制され、妊娠しにくくなるからです。このことは最近の医学で証明されていますが、江戸時代も肌感覚で分かっていたのでしょう。だから、お江が国松だけ自分で育てたなんてことは信じがたいのです。

女の子ばかり産んでしまったお江。その悩み、計り知れず……

 もちろん、お江にも「跡継ぎを産む役割」が求められました。そして1595年(文禄4年)、22歳のときに秀忠と結婚して以来、立て続けに7人もの子供を産んでいるのです。そのプロセスを追ってみましょう。

1595年(22歳)  徳川秀忠と結婚
1597年(24歳)  「千姫」を出産
1599年(26歳)  「珠姫」を出産
1601年(28歳)  「勝姫」を出産
1602年(29歳)  「初姫」を出産
1604年(31歳)  嫡男「竹千代(後の家光)」を出産
1606年(33歳)  次男「国松(後の忠長)」を出産
1607年(34歳)  「和姫」を出産

 このリストを見てわかるように、お江は秀忠と結婚して次々に出産したものの、20代で産んだのは女の子ばかりだったのです。その上、秀忠に嫁ぐ前にも、羽柴秀勝との間に「完子」という女の子を産んでいます。

 20代で女の子ばかり5人も産んだ御台所を、将軍家はどんな目で見たことでしょう。「この女は女しか産まない。もしかしたら嫡男は産めないのではないか」と白い目で見られたのではないでしょうか。

 織田信長の妹・お市の方が生んだ「浅井三姉妹」の一人だったことからも、お江の悩みの深さが推察できます。母であるお市の方は、男は一人も産まず、娘ばかり3人産んでいるのです。「女ばかり産む血筋」と思われても仕方がありません。

 それを裏付けるように、初姫が生まれる直前には、他の女性が秀忠の長男「長丸」を産んでいます。ただ、長丸は生まれて数年で他界しており、生んだ女性も徳川家の記録には「家女」としか記されておらず、身分の低い女性だったと推定されています。

 もしかしたら、側室を持たなかった秀忠さえも身近な女性に手を出すほど、世継ぎ問題は深刻だったのかもしれません。そしてお江の歳は「もう若くない」とされた三十路の目前に達していました。生きた心地がしなかったのではないでしょうか。

(『後編』へ続く)


【参考資料】
 ・「金戒光明寺」パンフレット、公式サイト
 ・「歴史群像 徳川家と江戸時代」(宮本義己著/学研プラス)
 ・「誰も知らなかった江」(宮本義己著/毎日コミュニケーションズ) ほか

(nikkei BP net 2016.2.29掲載)