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column 京都「人生がラク」になるイイ話

これこそ勝ち組?
信長と家康を動かした戦国時代の“バカ殿”

 そろそろ春本番。日差しが暖かくなり、色とりどりの花が咲き始めると「さあ、春が来た! 気分一新、頑張らなければ!」なんて張り切る、やたら元気な輩が増えてきます。しかし一方、「春はいろいろ新しいことが始まるし、覚えなければならないことも増える。自分はそんなに頑張れないから、なんか、気が重いよ」とブルーな気分になってしまう人も、少なくありません。

 “頑張れない人”が増えているからでしょうか。今、空前の「猫ブーム」が全国を席巻しています。どんなに周囲が騒いでも、「自分には関係ないよ」とのんびり生きる猫たちに癒される人が増えているのです。それだけではありません。現在、大ヒット中のNHK朝ドラ「あさが来た」にも、キャリアウーマンの主人公を支える“あまり頑張らない旦那”に人気が集まっています。

 そこで今回は、戦国時代を頑張らず、猫のようにラクに生きた通称“バカ殿”の生き方に迫りたいと思います。というのも、この“バカ殿”は立派な戦国大名にもかかわらず、親の仇(かたき)・織田信長にすり寄って、領土を奪った徳川家康にも頼りまくりながら、最終的には誰よりも長生きしたばかりか、しっかり血筋を後世に残しているのです。戦国大名としては“バカ殿”でも、人間的には勝ち組だったのかもしれません。

気ままな猫にように生きてみたい。

今川氏真をご存知ですか?

 戦国大名・今川氏真(うじざね)。この名前を知る人は、あまり多くないでしょう。しかし、織田信長に「桶狭間の戦い」で敗れた今川義元の息子といえば、「えっ、息子がいたの。なぜ、仇討ちしなかったの?」と興味を持つ人は少なからずいるかもしれません。

 実は私もそのひとり。戦国時代といえば「戦に負けたら、死ぬまでリベンジを繰り返す」といったイメージが強く、「桶狭間の戦い」で敗れた今川義元の息子なら当然、仇討ちするだろうと想像してしまったのです。しかも氏真の母は、武田信玄の姉・定恵院というではありませんか。ということは、氏真は信玄の甥にあたるわけですから、武田家と手を組んで、織田信長に刃を向けることはそう難しいとは思えません。しかも「桶狭間の戦い」から15年後には、「長篠の戦い」があったのですから、機も熟していたはずです。

 しかし史料には、氏真は全く逆に動いたことが記されています。信長に仇討ちを挑むどころか、にゃんにゃんとすり寄って、何度もプレゼントを贈ったり、得意の蹴鞠(けまり)を披露したりしているのです。

 今川家といえば戦国時代きっての大大名で、「桶狭間の戦い」では2万5000もの大軍を率いていました。だからこそ、少数の軍しか持たなかった信長の勝利は奇跡ともいわれ、後世に「日本三大奇襲」として語り継がれています。その家督を継いだ氏真がなぜ、そんな行動に出たのでしょうか。プロセスを追ってみました。

名門・今川家を滅亡させた“バカ殿”

 氏真が今川家の家督を継いだのは、まだ義元が生きていた永禄元年(1558年)前後と言われています。理由は義元が本国・駿河から西へ侵略を行うため、本国の家督を息子である氏真に譲ったのだそうです。つまり、スゴイ父親が新事業の拡大に専念するため、本業を息子に託したようなものです。さしずめ氏真は、“二代目ボンボン”といったところでしょうか。

 しかし、そのスゴイ父親は永禄3年(1560年)「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれてしまいます。それで氏真はいきなり、名実ともに今川家の当主になってしまいました。今に例えるなら、“父親あってこそ”成り立っていた会社で、父親が突然死してしまったため、何も知らない息子が事業を引き継いだといった感じでしょうか。氏真はさぞ、慌てたことでしょう。

 慌てたのは氏真だけではありませんでした。家臣たちも、傘下にいた大名たちも「このまま今川家に従っていいのだろうか……」と迷い始めたようです。

 その結果、今川家の家臣たちは次々と離れていき、傘下にいた松平元康(のちの家康)も今川家と断交し、織田信長につくことを決めてしまいました。さらに祖父の武田信虎からも見放され、氏真はついに領土から追い出されてしまいます。きっと氏真には政治力も人徳もなかったのでしょう。父親の威厳はあまりにも大きすぎたようです。

 ただ史料には、氏真は必死で今川家存続のために頑張ったという記録も残されています。なかには信長に先んじて、富士大宮の六斎市を「楽市」にする政策も打ち出しています。どうやら氏真は頭の良い人だったようです。しかし人が付いて来ず、成功はしませんでした。どんなに優れた政策も、信頼できない大名の元では何の意味も成さないということでしょう。

 そのことを悟ったのか、氏真は遊びに興じるようになりました。武田家の戦略や戦術を記した軍学書「甲陽軍艦」には、氏真は遊んでばかりで、政務を家臣の三浦義鎮に任せっきりにしたと記録されています。

 このような経緯があったので、氏真を“バカ殿”と表現することが多くなったのでしょう。そのうち、戦ではなく、家康の「駿河侵攻」により、今川家は戦国大名として滅亡します。というより、家康の「約束の反故(ほご)」が原因で“戦国大名ではなくなった”のです。

 氏真たちが、当時の今川家の居城「掛川城」を家康から守ろうと長期の籠城戦を行っていたところ、武田軍に不穏な動きがあったため、家康は氏真との和睦に動きました。そのとき氏真は、家臣の助命と引き換えに掛川城を開城し、家康は武田軍が駿河から撤退した後に再び、氏真を駿河の国主にすると盟約を結びました。しかし、その盟約が反故にされてしまったというわけです。

 戦国時代の「家の滅亡」というと、悲惨な戦いの末、一族郎党、女や子供まで一人残らず無残に命を奪われる……といったイメージが強いのですが、今川家の場合は「今日で政治家を辞めました。これからは別の仕事で生きていきます」みたいな感じだったようです。

親の仇・織田信長にすり寄る

 しかし、いったん「楽市」まで打ち出した頭の良い氏真が、なぜ遊びに興じて戦もせずに戦国大名としての今川家を“廃業”したのでしょうか。もう少し、深堀りしてみましょう。

 氏真は、戦国大名を“辞めた”後、文化人としての才能を開花させていきます。和歌にも優れていたようですが、最も知られているのは蹴鞠です。父の仇・織田信長に、その技を披露しているからです。

 「信長公記」に記されたエピソードを要約してご紹介しましょう。

信長に蹴鞠を披露した「相国寺」

 天正3年(1575年)3月16日、京を訪れていた氏真は、親の仇であるはずの織田信長に挨拶するため「相国寺」を訪れ、「帆布百反」を献上します。実は氏真はこの前にも、「千鳥の香炉」や「飯尾宗紙の香炉」を献上し、信長は「千鳥の香炉」のみ受け取ったという記録が残されています。つまり氏真は、父の仇・信長に以前からプレゼントを贈りながら、すり寄っていたのです。

 このとき、氏真と信長がどのような会話を交わしたのか詳細は記録にありませんが、ただひとつ、氏真が蹴鞠の名手であるという話題になり、興味を持った信長が「蹴鞠を見せよ」と所望したことが記されています。

 承諾した氏真は4日後の3月20日、同じ「相国寺」で信長に蹴鞠を披露しています。一緒に披露した参加者は、氏真の蹴鞠の師である飛鳥井雅教父子、三条西実枝父子、高倉永相父子、広橋兼勝、五辻為仲、庭田重保、烏丸光康の10人。いずれも蹴鞠の達人で、4日間でこれだけの名手を集められたのですから、氏真は相当な“蹴鞠人脈”を持っていたと推察されます。

 信長に披露された蹴鞠はかなりハイレベルだったのでしょう。信長はとても満足したと記録されています。

 ちなみに氏真に蹴鞠を教えた飛鳥井雅教は蹴鞠の宗家・飛鳥井家の主で、屋敷跡は現在、「白峯神宮」の敷地になっており、摂社には蹴鞠の守護神である精大明神が祭られています。今でも、境内では蹴鞠が行われており、観光客に披露されています。氏真が愛した蹴鞠は今もこの「白峯神宮」に受け継がれているのです。

「白峯神社」では蹴鞠が披露されている。

「自分は戦国時代に合ってない」と自覚し、天運も大物も動かす!

しかし、親の仇に取り入ろうとプレゼントを繰り返し、わざわざ挨拶に行った今川氏真は、当時としてはちょっと信じられない価値観を持った人物だったようです。一番興味深いのは、そのことを、自覚していたということです。氏真の和歌にその気持ちが表れています。

『なかなかに 昔をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の科(とが)にして』

つまり、氏真は「戦国時代はどうも自分には合わない」と自覚していたらしいのです。だからでしょうか、今川氏真については調べれば調べるほどユニークな逸話が出てきます。特におもしろい2つのエピソードをご紹介しましょう。

天正10年(1582年)、「長篠の戦い」で武田家を滅ぼした織田信長に、徳川家康が「駿河を今川氏真に与えたらどうか」と進言した。信長は「役にもたたない氏真に駿河を与えられようか、不要な人は生かさず腹を切らせたらいい」と返答。これを伝え聞いた氏真は驚き、たちまち逃げたが、そのうち「本能寺の変」が起こった。(「続武家閑談」より要約抜粋)


氏真は晩年、天下人となった徳川家康を頼り、江戸城にたびたび訪れて長話をした。家康が辟易(へきえき)し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えた。(「及聞秘録」より要約抜粋)

 どうやら氏真は、恥や外聞を気にせず、過去にもこだわらず、自分が生き残るために、本能的に動いていたようです。そんな天然さが、天運や大物を動かしたのかもしれません。

 ちなみに氏真は家康に与えられた品川の屋敷に移って庇護を受け、今川から品川に姓を変えて77歳まで長生きしました。もちろん血筋も後世に遺し、結果的に「今川家」を守ったのです。戦国時代の「勝ち組」といっても過言ではないでしょう。それを物語るように、氏真の蹴鞠を今に伝える「白峯神社」はいつしかサッカーをはじめとする球技の聖地となり、有名選手が蹴ったサッカーボールはもちろん、各種球技のウイニングボールが納められています。

「白峯神社」には有名選手が蹴ったウイニングボールが納められている。

氏真的考え方で、今をラクに生きてみる

 だったら私たちも、氏真的考え方を持ってすれば、もっとラクに生きていけるのかもしれません。ちょっと試してみましょう。まず氏真の和歌に見える2つのキーワードを整理してみます。

(1)「昔をも人をも 恨まじ」=昔のことも人のことも恨まないこと。
(2)時にあはぬを 身の科(とが)にして」=時代の価値観に合わないだけだから。

要するに、「春だから、頑張ろう!」とか「何事も前向きに、プラス思考で行こう」とか言う人が「偉いね」「素晴らしいね」と賞賛されるのは、ただ時代の価値観がそうさせているだけなのです。

 また、「頑張らなきゃダメ」と言われても気のりしないのは、自分の考え方が時代の価値観に合っていないだけなのです。だから、時代も人も恨まずに、思いどおりラクに生きればいいのです。

 そのうち、氏真が信長から逃げていたら「本能寺の変」が起こったように、放っていても周囲の状況が変わります。また、家康が氏真の長話にうんざりして品川の屋敷を与えたように、力のある人が“あきれて”救いの手を差し伸べてくれることでしょう。

 今、ダメな奴だと言われても、気にせずラクに生きていれば、そのうち周りが変わるのですよ。

白峯神社「蹴鞠の碑」

【参考資料】
 ・「戦国遺文 今川氏遍」(久保田昌希・大石泰史共著/東京堂出版)
 ・「現代語訳 信長公記」(太田牛一・中川太古共著/新人物文庫)
 ・「白峯神宮」京都府観光案内サイト など

(nikkei BP net 2016.3.14掲載)