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column 京都「人生がラク」になるイイ話

女の大戦略!
紫式部が「源氏物語」を書いた切ない理由

ない想いを抱いたら「源氏物語」

 3月も終わりに近づきました。この季節は卒業や人事異動で切ない別れを経験する人が少なくありません。なかには、突然転勤を命じられて、恋人と遠距離恋愛に突入すべきか、もしくはサッパリ別れてしまった方がいいのか、結論が出せないまま引っ越しの準備をしているビジネスパーソンもいるかもしれません。

 そこで今回は、切ない想いが約100万文字、54帖にもわたって綴られた日本最古の(世界最古とも言われている)大長編恋愛小説「源氏物語」に秘められた、千年の謎に迫ってみたいと思います……なんて言うと、きっと多くの源氏物語ファンから、こんなお叱りを受けるでしょう。

 「えっ、そんな軽々しく源氏物語の謎に迫れると思っているの? これまで数えきれないほど多くの文学者や歴史学者が研究して、まだ分かっていないのに、素人がとんでもないことを言うな!」

 もちろん、私も簡単に「千年の謎」を解き明かせるとは思っていませんし、私にできるとも思っていません。ただ、今の価値観をもって作者の紫式部の人生を深掘りすると、「人生がラク」になるヒントがザクザクと見つかるのです。

 「紫式部がもし、今どきの女性だったら」――そんな視点で源氏物語が書かれた背景を読み解くと、びっくりするような“女の大戦略”が浮かび上がってきたというわけです。

※源氏物語の解釈には諸説あります。これから展開する解釈に異論のある方は「こんな見方もあり得る」くらいの大きな心で、お許しいただければ幸いです。

紫式部はなぜ、“刺激的な”源氏物語を書いたのか

 そもそも紫式部はなぜ、源氏物語を書き始めたのでしょうか。というのも源氏物語は女性が書きそうなロマンチックな恋愛小説ではありません。冒頭からかなり刺激的な内容です。源氏物語を知らない読者のために、第1帖「桐壺」から第5帖「若紫」までの大まかなあらすじをご紹介しましょう。

 それほど身分が高くない更衣という女性が桐壺帝(天皇)の愛情を一身に受け、イケメンの光源氏を生む。更衣は身分が低いゆえに宮廷でイジメを受け、心労がたたって源氏が3歳のときに死んでしまう。桐壺帝は悲しんで、更衣に生き写しの藤壺を後宮に迎える。光源氏は藤壺に亡き母の面影を重ね、心から愛するようになる。そんな中、源氏は元服の夜に左大臣の娘・葵の上(4歳年上)と結婚する。

紫式部が通っていた宮廷(京都御所)

しかし、光源氏は妻の葵の上とは打ち解けず、「上流階級の箱入り娘より中流階級の女性の方が素晴らしい」などと言って次々に人妻や継娘に手を出し、ついに継母の藤壺にも子供を生ませてしまう。(源氏物語 第1帖「桐壺」から第5帖「若紫」まで要約抜粋)

 まるでシンデレラとドロドロの不倫ドラマをミックスしたような展開ではありませんか。現代なら誰が書いてもとがめられませんが、平安時代はバリバリの男尊女卑だったはず。そんな中でよく女性の紫式部が、最高権威の宮廷を舞台に、こんな不倫物語を書いたと思いませんか?

 もちろん、情緒豊かな和歌や心理描写の素晴らしさなど、文学的に優れた作品であることは間違いありません。しかし何か強い動機がない限り、一人の女性がこれほど“大それたストーリー”を紡ぐとは、私には考えられません。

 そこで、どうしても、その動機が知りたくて、紫式部が源氏物語を書き始めた頃の逸話を調べてみました。

紫式部も不倫していた?

 紫式部がいつ生まれたのか、明確な年号は記録にありません。様々な史料を照らし合わせると、973~979年の間に生まれたのではないか、という説が有力だと分かりました。

 身分は平安時代に最も栄えた「藤原北家」の家柄で、父は越後守・藤原為時、母は摂津守・藤原為信の娘。父は花山天皇の子供時代、読書役を務めた経歴をもつ文才豊かな人だったそうです(なお、「紫式部」は後の官職名ですが、本名については諸説ありますので、このコラムでは「紫式部」と統一表現します)。

 つまり紫式部は平安時代のセレブな家に生まれ、文才のある父のDNAを受け継いだお嬢様だったということです。史料には、幼女の頃より漢文を読みこなしたなど、文才あふれる逸話が紹介されています。

 そして長徳4年(998年)、20歳も年の離れた山城守・藤原宣孝と結婚して、一女・藤原賢子(大弐三位)を生んでいます。ところがその結婚、よく調べてみると、紫式部が嫁いだとき、宣孝にはすでに3人の妻と嫡男がいたことがわかりました。セレブで文才あるお嬢様がなぜ、20歳も年の離れた男性に4番目の妻として嫁いだのでしょうか。

蘆山寺にある紫式部と娘・大弐三位の歌碑

 さらに、藤原宣孝は紫式部と結婚してわずか3年後の長保3年(1001年)に他界しており、紫式部は宣孝と死別後に源氏物語の執筆を始めたという説が有力になっています。では、なぜこの時期に、紫式部は源氏物語を書き始めたのでしょうか。セレブな女性が未亡人になって、いきなり不倫小説(失礼!)を書くなんて、ちょっと不思議ではありませんか?

 「きっと、何かあるに違いない」と思った私は、さらに紫式部のプロフィルに関する逸話を探してみました。するともうひとつ、逸話が見つかったのです。

 なんと、紫式部は結婚する11年前(987年)、後に源氏物語の執筆を応援する藤原道長が左大臣の娘・源倫子と結婚した時、倫子付きの女房(使用人のこと)として出仕した(宮仕えすること)というのです。

 もちろん、これはひとつの逸話ではありますが、紫式部が最も早い生年とされる973年に生まれていたとすると、987年には14歳になっています。当時は結婚しても良い年ですが、紫式部は才女の評判が高かったことから、出仕させられたのかもしれません。今に置き換えれば「私、結婚より仕事を選びました!」ということでしょう。

 そして、ここからは勝手な推理にすぎませんが、倫子付きの女房の仕事をしている中で、藤原道長と出会い、深い関係になったのではないでしょうか。つまり、こういうことです。

(1) 紫式部はいったん結婚より仕事を選んだものの、就職先の社長にあたる藤原道長と道ならぬ関係に陥ってしまった。

(2) 10年ほど不倫関係を続けていたが、25歳になったとき、賢明な式部は「このままではいけない」と思い直し、道長との関係を清算するため、20歳も年上の藤原宣孝と結婚し4番目の妻となった。

(3) しかし、夫の宣孝は3年後に死んでしまった。このとき紫式部はすでに28歳。当時は年増といわれる年齢で、しかもシングルマザーになっていた。そんなトリプルパンチに見舞われて彼女は「この先、子供を抱えて、どうやって生きていこうか」と悩んだ。

(4) そう考えているうちに、「私がこんなことになったのは全部、道長のせいだ!」と思うようになった。しかも、その道長は“何も無かったかのように”どんどん出世している。「何よ、自分だけいい思いをして! このままじゃ許せないわ」と策を練った。

(5) 賢く文才のある紫式部は、得意の情緒豊かな和歌や文章をもって、道長がかつての不倫を彷彿するであろう源氏物語を書き始めた。

 源氏物語ファンの皆様、勝手なことを書いて、申し訳ありません。しかし、こう考えれば、すべての辻褄が合うと思いませんか?

広大な京都御所

“前の男”を利用して出世した?紫式部の大戦略

 冒頭で紹介した源氏物語のストーリーは、藤原道長と紫式部が不倫したと仮定して物語に当てはめると、濃厚なメッセージが浮かび上がってくるのです。

1:桐壺帝は身分の高くない更衣を愛し、イケメンの光源氏が生まれる。
⇒ 藤原道長(あなた)は妻の女房(使用人)にすぎない紫式部(私)を愛した。だから「源氏物語」が生まれるのよ(道長への果たし状?)。

2:光源氏が3歳のとき更衣は他界。桐壺帝は更衣と生き写しの藤壺を後宮に迎える。
⇒ 私は結婚3年目で旦那と死別した。あなたはもう一度、私の面倒を見るべきな のよ(道長への宣戦布告?)。

3:光源氏は元服して左大臣の娘・葵の上と結婚するが、「女性は、上流より中流階級の方が素晴らしい」などと言って、次々に人妻や継娘、継母と不倫する。
⇒ あなたの妻は、左大臣の娘だったわね。そんな妻より私の面倒をみなさい。そうでなければ、あなたとの不倫の日々を「源氏物語」で次々とばらすわよ(道長への脅迫?)。

 藤原道長といえば「栄花物語」に描かれたほどの出世頭。もし、この推理が当たっていたなら、藤原道長にとって源氏物語は脅威だったに違いありません。情緒豊かな和歌と見事な心理描写で読む人を魅了するだけに、「いつ、この物語の真実が明かされるか」とハラハラしたのではないでしょうか。

 というのも源氏物語が書き始められたとされる時期は、藤原道長にとって長女の彰子を一条天皇に嫁がせた非常に大切な時期だったのです。もし、このタイミングで、紫式部にカミングアウトされたら、たまったものではありません。天皇の信頼を失うばかりか、妻の倫子も怒り出し、大変なことになるでしょう。

 しかし、道長はさすがに賢い人でした。紫式部のメッセージをプラスに受け止めて、彼女が宮廷で働けるように手配したばかりか、源氏物語を優れた文学作品と位置付け、紫式部に「どんどん続きを書け」と促したのです。

 史料には、道長は源氏物語の評判を耳にして、作者の紫式部を一条天皇に嫁がせた長女の彰子の女房に迎え入れ、源氏物語を一大文学小説として書き続けるよう奨励したと記録されています。

 さらに、道長の長女・彰子の女房には紫式部のほかに、王朝有数の歌人・和泉式部や伊勢大輔、道長の栄華を綴った「栄花物語」の作者・赤染衛門、出羽弁などが集められ、彰子の元には、華麗な文芸サロンが形成されたと伝えられています。

 つまり道長は自身の不倫物語を一大文学作品に仕立て上げ、紫式部を作家に押し上げて、みずから支援することで、身を守ったことになります。それが高じて紫式部の執筆を促しすぎた結果、源氏物語は巨大長編恋愛小説になったのかもしれません。

 この“仮説”を裏付けるかのように、源氏物語のストーリーは第9帖「葵」あたりから別の方向へ急展開します。光源氏が妻の葵の上を愛しく思うようになり、第10帖「賢木」で光源氏は最も愛しい藤壺に振られ、さらには天皇の思い人に手を出したことがバレて、第12帖「須磨」では流罪で須磨に流されています。

 紫式部が源氏物語を書く目的が変わったから、なのかもしれません。

 当時、紫式部が住んでいた家の跡とされる「蘆山寺」は、京都御所のすぐ近くにありました。紫式部はこの場所から毎日、宮廷に通っていたのでしょうか。蘆山寺にある「源氏庭」は平安朝の庭園の「感」を表現したと説明されていますが、白砂と苔が織りなす庭園には、結婚より仕事に生きた紫式部の心模様が描かれているようです。

蘆山寺「源氏庭」

紫式部邸の跡「蘆山寺」

「宇治十帖」に込められた亡き夫・宣孝へのメッセージ

 さらに光源氏の死後の物語として描かれた「宇治十帖」にもメッセージ性が感じられます。山城守(宇治市長にあたる役職)だった夫の藤原信孝を偲ぶ気持ちから書き綴ったのではないかと思われるのです。

 光源氏が他界していったん物語は終わったかに見えるのですが、舞台を宇治に移し、源氏の子孫の物語が描かれているからです。「不倫を隠していてごめんなさい。せめて償いの気持をこめて、源氏物語はあなたが守っていた宇治を舞台に終わることにするわ」――そんな紫式部のメッセージが聞こえてくるような気がします。

 というのも、源氏物語は「宇治十帖」だけ仏教色が漂っているのです。ストーリーを要約すると、光源氏の面影を継ぐ匂宮と薫が同じ女性・浮舟を愛しますが、浮舟は2人の男に愛されたことに苦悩して、宇治川に投身自殺します。しかし死にきれず、横川僧都に救われ出家します。それを知った薫が熱いラブレターを送りますが、浮舟は一切、薫との関係を断ち切り、平穏に生きる道を選ぶのです。この展開は紫式部が男性との関係をキッパリ断って、文学に生きることを夫の宣孝に告げたものと解することもできます。

浮舟が投身自殺をはかる宇治川

『めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな (紫式部)』

 これは、百人一首に入選した紫式部の和歌ですが、3年の短い間、夫だった宣孝への深い思いが感じられます。

「宇治十帖」の舞台・宇治川に佇む紫式部像

紫式部に見習って、別れをプラスに変えよう!

 ここまで紫式部を一人の女性として、現代の価値観で深掘りしてみましたが、いかがでしたか。源氏物語ファンは気を悪くされたかもしれませんが、紫式部も血の通った女性だったはず。こんな見方も一理あると思っていただければうれしいです。

 そして、この「紫式部的な生き方」は、私たちに大きなヒントをくれます。

 たとえば、いきなり転勤を命じられて恋人と離れてしまうあなた。迷わず「遠距離恋愛」に挑戦してみましょう。せっかく愛し合った仲なのですから、これからも、メールやLINEで情緒豊かな文章でメッセージを送れば、心が離れることはありません。

 「着いた? 寂しくない?」

 「うん、君と同じ月を見ていると思うと、寂しくないよ」

 なんて、ちょっとキザですか? でも、いつものメールに情緒豊かな表現をプラスすると、かえって愛情が深まることもあるかもしれません。

 ただ、文才豊かな人との不倫は絶対に避けましょう。突然、不倫小説を書いて「これは実体験です」なんてカミングアウトされたら、たまったものではありません。愛は、情緒豊かな文章が心に響く相手と育みたいものです。

【参考資料】
 ・「源氏物語」(瀬戸内寂聴/講談社文庫)
 ・「紫式部は鷹司殿倫子の女房であったか」(徳満澄雄/「語文研究」第62号)
 ・「紫式部とその時代」(角田文衛著/角川書店)、「蘆山寺」パンフレット など

(nikkei BP net 2016.3.28掲載)