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column 京都「人生がラク」になるイイ話

源氏と平氏を操った後白河法皇、
熊野詣と源平合戦の意外な関係

部下に反発されたら「後白河法皇」を思い出せ

 新年度が始まりました。めでたく管理職に昇進した人もいらっしゃるでしょう。きっとやる気満々、希望に満ちていると思いますが、そんなあなたにご忠告! 昇進の喜びはつかの間です。これからは部下の操り方に四苦八苦する日々が待っているのです。特に反骨精神たくましい強者を部下にもってしまったら、輝かしいはずの管理職ライフはたちまち地獄と化してしまいます。

 そこで今回は、あの平清盛や源義朝を陰であやつり、死ぬまで武家の言いなりにはならなかった後白河法皇(在位中は天皇、院政を始めたときは上皇、出家した後は法皇と呼びます)の“強者どもの操り方”を深掘りしてみたいと思います。

 後白河法皇といえば、「平家物語」や「源平合戦(治承・寿永の乱)」で“平家を滅亡させ、源義経を悲劇に追いやったあくどい政治家”といったイメージが強いのですが、逆の見方をすると武家社会へと流れる時代と最後まで戦った立派な天皇ということができます。しかも二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の5代にわたって院政をとったのですから、かなりのやり手だったのではないかと想像してしまいます。

 しかし史料には、後白河法皇は天皇になって以降、34年にわたる政治人生の中で34回も熊野詣をしたと記されています。熊野といえば平安時代、極楽浄土とされたところ。その極楽浄土にほぼ毎年(特に最初の頃に集中して)、京都から往復1カ月もかかる道を詣でていたというのです。さらに後白河法皇は京都に熊野三大社を勧請した「京都三熊野」までつくって、熊野詣に傾倒しているのです。

 あくどい政治家と極楽浄土を求める熊野詣。ちょっとイメージがマッチしませんが、実際のところ、後白河法皇はどんな政治家だったのでしょう。

 まずは彼にまつわるエピソードをひもといてみました。

後白河法皇ゆかりの地で猫もリフレッシュ

天皇になるはずじゃなかった第四皇子

 後白河法皇の諱(実名)は雅仁(まさひと)親王。1127年(大治2年)鳥羽天皇の第四皇子として生まれました。もともと天皇になるはずじゃなかった四男坊だったのです。

 本人も皇位継承など想定外だったらしく、「今様」と呼ばれる流行歌に夢中になっていました。後の1180年、後白河法皇がまとめた今様歌集『梁塵秘秒口伝集』には次のように記されています。

『十歳余りの時から今様を愛好して稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは3回あり、その内2回は喉が腫れて湯や水を通すのも辛いほどだった。

(中略)

崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は50日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて40日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした』(「梁塵秘秒口伝集」現代語訳より抜粋)

 どうやら後白河法皇は子供のときから、今様(流行歌)を歌ってばかりいる子供だったようです。その様子をみて父親の鳥羽天皇は「即位させるような皇子じゃない」とみなしていたと、鎌倉時代に書かれた史論書「愚管抄」(慈円著)には書かれています。

 しかし1155年(久寿2年)、第76代の近衛天皇が亡くなった時、次の天皇になるはずの守仁親王が幼少だったため、父の雅仁親王(後の後白河法皇)が、中継ぎとして即位することになりました。

 本人もびっくりしたのではないでしょうか。その上「自分の子供を皇位につけて院政したい」と目論んでいた兄の崇徳上皇(第75代天皇)が猛反発しました。崇徳上皇は、父の鳥羽上皇が母ではない別の女性(藤原得子)を愛し、彼女が生んだ近衛天皇を即位させるために、皇位から下ろされたという辛い過去を持っていたのです。

 この恨みは後白河天皇が在位していた、たった3年間の間に爆発します。父の鳥羽法皇の崩御をきっかけに、崇徳上皇と後白河天皇が皇位を争う「保元の乱」が勃発したのです。

部下が争って嫌気? 後白河上皇の「熊野詣」が始まる

 後白河天皇にしてみれば、「なんで、こんな目に遭わなければならないの?」といった感じだったでしょう。もともと皇位を継ぐ気などなかったのですから。しかし、いったん天皇になったら、お気楽な立場ではいられません。国の行く末を決めなければならない責任も生じます。期せずとも兄と皇位継承を争って「保元の乱」に勝ったのだからなおさらです。

 このあと、後白河天皇は在位3年目の1158年、皇位を自分の子供である二条天皇に継承し、上皇となって「院政」を始めます。そして「保元の乱」で後白河天皇側について大活躍した平清盛と源義朝を味方につけて、政治の実権を握ります。ところが、その翌年、頼りにしていた平清盛と源義朝が争う「平治の乱」が勃発します。

 信頼していた部下が戦うのですから、後白河上皇にしてみれば嫌な争いだったと思います。その上、勝利した平清盛は、次第に自分を上回るほどの強大な権力を持つようになるのです。

 現代に置き換えれば、頼りにしていた優秀な部下たちが勝手に争って、勝った方が自分よりすごい力を持つようになって手がつけられなくなった、というようなことです。上司として、これほどやっかいなことはないかもしれません。

 後白河上皇は「平治の乱」の翌年、熊野詣を始めています。辛いときの神頼みといったところでしょうか。京都の神様でもなく、伊勢神宮でもなく、往復1カ月もかかる熊野を目指した裏には、現実逃避したい気持があったのかもしれません。最初の「熊野詣」には、次のようなエピソードが伝えられています。

後白河上皇の熊野詣に連れ立っていた平清盛は、熊野詣のために身を清める王子社に泊まっていたとき、寝入りばなの夢うつつに正式に礼服を着た者を連れた唐車(熊野権現の御子神が乗る車)が王子社の前に止まるのを見た。すると後白河上皇が今様を歌っていた。

熊野の権現は
名草の浜にこそ降りたまへ
若の浦にし ましませば
年はゆけども若王子(梁塵秘秒口伝集)

 なんと、後白河上皇は熊野詣の道中、熊野権現の子供といわれる若王子のために、と称しておもいっきり「今様」を歌っていたのです。

 また2回目の熊野詣は2年後の1162年。このときも、熊野権現に「今様が欲しいものだ、今ならきっと趣がでるよ」と請われ“仕方なく”後白河上皇は今様を歌ったと記されています。

よろづのほとけの願よりも
千手の誓いぞ頼もしき
枯れたる草木もたちまちに
花さき実なると説いたまふ(梁塵秘秒口伝集)

 さらに、出家して後白河法皇になった1169年には、12回目の熊野詣をして、以下の「今様」を歌っています。

ほとけは常にいませども
うつつならぬぞあはれなる
人のおとせぬあかつきに
ほのかに夢にみえたまふ(梁塵秘秒口伝集)

 どうやら後白河法皇の熊野詣は、「今様」をおもいっきり歌ってリフレッシュする意味をはらんでいたようです。そのための1カ月だと考えれば、後白河上皇が熊野詣に傾倒した理由がわかります。

部下への戒めが、源平合戦に発展した?

 熊野詣でリフレッシュした後白河法皇は政務に戻ると、また反骨精神たくましい部下に悩まされることになります。

 そこで「平治の乱」から18年後の1177年、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほど権力を持った平氏をつぶそうと「鹿ケ谷事件」を起こします。しかしこのとき、後白河上皇がともに戦ったのは貴族たちでした。武力を持つ平氏に勝てるわけはありません。あっさり失敗して後白河法皇は幽閉させられ、院政ができなくなってしまいます。

 これにこりたのか、後白河法皇は武家の力を利用するようになります。「目には目を」「武家には武家を」と思ったのでしょうか。そして狙いを定めたのが「平治の乱」で清盛に負けた源義朝の子供、源頼朝でした。後白河法皇は幽閉先から子供の以仁王を通じて、平清盛の追討令を出し、源頼朝が挙兵しているのです。

 ここからは有名な「平家物語」や「源平合戦」に描かれているとおりです。頼朝の代わりに源義経が戦って平氏を滅亡させます。「壇ノ浦の戦い」の悲劇は、平家物語の涙を誘うクライマックスであり、幾度となく映画やドラマで描かれています。

 さらに、後白河法皇は平氏を滅ぼした源義経を殊勲者として、頼朝には何の相談もなく官位を授けます。まだ官位を受けていない頼朝にしてみれば忸怩(じくじ)たる思いだったでしょう。

 義経は頼朝に誤解され続け、ついには自害に追い込まれてしまいます。この義経の悲劇はあまりにも有名で人々は同情の涙を流し、「判官びいき」の言葉まで生まれました。人々がきっかけを作った後白河法皇に悪いイメージを持つのは当然といえるでしょう。源頼朝も後白河法皇のことを「日本国一の大天狗」と罵っています。

政治の世界に自分が汚されていることを自覚していた?

 しかし、後白河法皇の立場からすれば、武家社会に向かう時代の流れに抵抗するのは当然のこと。武家の権力が増大して天皇の立場をおとしめることなど、あってはならないのです。

 その後、後白河法皇は源頼朝が開いた鎌倉幕府と協調しながらも一線を画し、いくら頼朝が征夷大将軍になりたいと願っても死ぬまで認めませんでした。後白河法皇が崩御した後、頼朝はようやく征夷大将軍に任じられています。

 そして、このとき後白河法皇が守った公の立場こそが、その後の武家社会における公武関係の枠組みを築いているのです。

 ただ大きな時代の流れにあらがうには、ものすごく強靱な精神力が必要だったことでしょう。後白河法皇は大きなストレスを抱えていたのではないでしょうか。34回にも及んだ熊野詣は必要不可欠だったのかもしれません。そして腹黒いことも辞さない政治の世界に、自分が汚されていることを自覚していたのかもしれません。

 後白河法皇がつくった「京都三熊野」は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社)を京都に勧請したもの。後白河法皇は熊野詣に行くとき、京都三熊野を参拝することで身を清めたそうです。

熊野若王子神社拝殿

 なかでも熊野那智大社にあたる「熊野若王子神社」は、後白河法皇が熊野詣の起点とした所です。当時は大きな社でしたが応仁の乱で荒れ果て、その後、豊臣秀吉が再興して今は、「哲学の道」の起点にたたずんでいます。

 熊野の神様とともに伊勢神宮の神様・天照大神も祭られており、神殿やお札、おみくじには勝利に導くとされる八咫烏(ヤタガラス)があしらわれています。後白河法皇は、熊野詣に行くとき、多くの神々に見送ってもらいたかったのでしょうか。また八咫烏に勝利への道を案内してもらいたいと願ったのかもしれません。

古い歴史が感じられる境内

後白河流、強者たちの操り方

 これまで「悪者」のイメージが強い後白河法皇の立場で、平清盛や源頼朝など強者たちの操り方を深掘りしてみましたが、いかがでしたか? ポイントはブレない目的を持つことと、「目には目を」「強者には強者を」といった考え方のようです。

 では、私たちのビジネスライフにどう役立てればいいのか、現代の会社に置き換えてシミュレーションしてみましょう。

 たとえば新年度、あなたは先輩を飛び越して課長に抜擢されたとします。それを良く思わない先輩があなたをおとしめようとしたため、優秀な部下AとBの2人に協力してもらってその先輩を左遷に追い込みました(保元の乱)。

 これで課長の座は安泰と安心していたのもつかの間、信頼していた優秀な部下2人がケンカをして、Aが勝ちました(平治の乱)。あなたは負けたBを左遷し、勝ったAには重要なプロジェクトを任せました。しばらく課内はうまく回っていたのですが、次第にAはあなたを無視してプロジェクトを進め、いつのまにかあなたより権限を持つようになりました。

 部下があなたより権限を持ってしまっては課長の面目がたちません。そこで部長に相談してAを異動させようとしました。しかし部長はすでにAの味方で、逆にあなたが左遷されてしまいました(鹿の谷事件)。

 あなたはリベンジするために、かつて左遷した部下Bに近づいて、プロジェクトを思うままに操るAを失墜させろとささやきました。Bは自分の復権のためにプロジェクトを失敗に追い込みました。失意のAは会社を辞めてしまいました(源平合戦)。

 おかげで、あなたもBも返り咲きましたが、今度はBが新たなプロジェクトを成功させて、会社そのものの仕組みを変えようとしました(鎌倉幕府)。Bは会社からお墨付きをもらうために、あなたに役職を求めましたが、あなたは断固としてBに役職を与えませんでした。Bはあなたのことを「社内一の大天狗」とののしりましたが、そんなことで、へこたれるあなたではありません。

 そのうち社風が「過剰な実力主義は良くない」という方向に転換し、上司の権限が守られるようになりました(公武関係の枠組みの成立)。Bには、あなたの退職を機に、念願の役職が与えられました。

 いかがですか、まとめると強者の部下には同じくらいの実力を持つ部下と競争させ、勝った方には大きなプロジェクトを任せて、大いに働いてもらえばいい、ということです。部下が出過ぎたことをしてもケンカしてはいけません。上司としての権限を活用して食い止めればいいのです。部下の立場から見ると「あくどい上司」に見えて、いろいろ悪口を言われるかもしれませんが、上司の権限を守ることは、会社の安定をはかることにつながるので、へこたれずに頑張りましょう。

 しかし、かなりのストレスが伴うので、年に一度はおもいっきり羽を伸ばせる場所をつくりましょう。そのためにお金を惜しんではいけません。すぐ行ける場所に“とりあえずリラックスできる場所”を見つけることも大切ですよ。



【参考資料】
 ・新潮日本古典集成「梁塵秘秒」(新潮社)
 ・「日本の原郷」(梅原隆著/新潮社)
 ・現代語訳吾妻鏡(五味文彦・本郷和人/吉川弘文館)など

(nikkei BP net 2016.4.11掲載)