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column 京都「人生がラク」になるイイ話

悲劇の将軍・源頼家に
北条政子が注いだ“母の愛”

 突然ですがみなさん、家族サービスしていますか? なかには一生懸命やっているのに、子供たちに「つまんなかった」とすねられているお父さん、お母さんもいるのではないでしょうか? 心を込めて頑張ったのに相手に伝わらない……そんな時は、とても悲しくなりますが、決してあなたが悪い訳ではありません。“わかってもらえていない”だけなのです。

 「親の心子知らず」と言いますが、今回は鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻・北条政子と、彼女が見殺しにしたと伝えられる息子・源頼家のエピソードを深掘りし、本当に北条政子は息子に冷たかったのか、その真実に迫りたいと思います。ひょっとしたら、母の“愛”が、息子にうまく伝わっていなかっただけなのかもしれません。

 ヒントをくれるのは、源頼家が開基し、臨済宗の開祖・栄西が開山した京都最古の禅寺「建仁寺」。常に観光客で賑わうこの寺に、もしかしたら頼家本人も気づいていなかったかもしれない幸せの痕跡を探ってみました。

建仁寺

18歳の源頼家に幕府は任せられない

 源頼家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子の間に生まれた嫡男です。鎌倉幕府が開かれた時から二代将軍の座に就くために様々な教育を受けてきましたが、18歳のとき父・頼朝が急死したため、若くして家督を相続することになりました。

 鎌倉幕府は源平合戦など壮絶な苦難を経て源頼朝が開いた幕府です。以前、「源氏と平氏を操った後白河法皇、熊野詣と源平合戦の意外な関係」でも紹介したように、頼朝が幕府を開くまでの道のりは非常に険しいものでした。そのことは幕府の御家人たちも皆、嫌というほどわかっていました。

 それで「まだ18歳の頼家に鎌倉幕府を任せるのは無理だ」と判断し、母の北条政子の父・北条時政や弟・北条義時を交えた有力御家人13人による合議制を敷き、何事も合議で決める体制を整えました(13人の合議制)。

 しかし、頼家は納得できませんでした。二代目としてのプライドもあったのでしょう。御家人たちに反発して、若い家来5人を指名し「この5人しか自分に目通りできない」と決めて、女遊びや蹴鞠に興じるようになってしまいます。

 それが御家人たちには世間知らずにしか見えなかったのでしょう。ますます「頼りない二代目に幕府を任せておけない」と思ってしまったようです。

悲劇の将軍・源頼家

 そんな中、頼家は征夷大将軍に任じられますが、翌年、命にかかわる重病に倒れてしまいます。一時、危篤に陥ったことから、幕府は京の天皇に「頼家が亡くなったから弟の千幡(後の三代将軍・源頼実)が後を継いだ」と報告してしまいます。そのことを知って、病が治った頼家は激怒します。自分が病気で伏せっている間に、いつのまにか将軍職を解かれたのですから無理もありません。

 しかし一方、まだ地盤が弱い鎌倉幕府を守っていくためには、危篤に陥った将軍を擁護するより、次の将軍をたてて「早く天皇に報告して、次の将軍を早く征夷大将軍に任じてもらいたい」と思う幕府の思惑も理解できます。なにしろ初代の頼朝は、鎌倉幕府を開くにあたって征夷大将軍の位がどうしても必要だったのに、何度願い出ても後白河法皇に拒否されていたのですから(「源氏と平氏を操った後白河法皇、熊野詣と源平合戦の意外な関係」参照)。

 特に、母・北条政子の実家である北条氏は必死だったと思います。北条氏はもともと伊豆の豪族にすぎませんでした。しかし、娘の政子がまだ流人だった頃の頼朝と恋に落ち、実家の猛反対を押し切って無理やり結婚しました。その結婚が大化けして、まさかの将軍御台所になったのです。このチャンスをみすみす棒に振るなんてことは考えられなかったでしょう。「病気の長男はさっさと忘れて、次男で地位を安定させたい」と考えても無理はありません。

 そもそも頼家は父の頼朝が自慢していたほど優秀な嫡男だったのですから、病気にさえならなければ、こんな目には遭わずに済んだかもしれません。しかもこの後、母・政子により出家させられ伊豆の修善寺に追放されて、武士としては非常に無残な最期を遂げています。なんと入浴中に北条氏の手勢に襲われ、急所を切られて殺されたのです。

建仁寺 庭園

北条政子は冷たすぎる!

 このような頼家のエピソードを知ると、どうしても母である北条政子に冷たさを感じてしまいます。病気になった途端、幕府から追放したのも、入浴中に殺したのも母の実家である北条氏だからです。もしかしたら実家と共謀して殺したのではないか、とまで思ってしまいます。

 北条政子といえば激情型の女性として知られています。将軍が子孫繁栄のために妾(めかけ)をつくるのは当然とされていた時代に、頼朝が愛妾をつくると激しく嫉妬したことや、頼朝亡き後は「尼将軍」として幕府の実権を握ったことは有名です。

 「そんな女性だったら、頼りない息子を切り捨てても当然」と思ってしまいがちですが、一方で義弟・義経の子を身ごもった静御前をかばったというエピソードを重ねて考えると、少し見方が変わってきます。

 源平合戦の最中、頼朝と義経の間の確執が深まる中で捕らえられた静御前が、頼朝の前で義経を慕う白拍子を披露しても、政子は怒る頼朝をとりなして静に褒美を与えました。静が生んだ男の子が殺されてしまったときも、政子は静を憐み、京に帰る際に重宝を授けています。

 総じて考えると北条政子は、情の深い女性だったように思えます。頼朝に嫉妬したのも深い愛情ゆえであり、子供たちが殺された後「尼将軍」になったのも、これ以上、悲劇を繰り返さないためと考えればつじつまが合います。

 そこで、頼家のエピソードをさらに深掘りしてみました。すると「もしかしたら、政子は頼家を守っていたのではないか」と思える部分がちらほら、見えてきたのです。

建仁寺方丈障壁画

臨済宗の開祖・栄西を京都に送った真意とは

 そのカギを握るのが、建仁寺を開山した臨済宗の開祖・栄西(明庵栄西)の存在です。

 栄西は14歳のとき比叡山で得度し、天台宗や密教などを学んだ後、南宋へ2度留学し、 当時、南宋で繁栄していた禅宗を学んだ立派な禅僧です。帰国後、まずは京で禅の教えを広めようとしますが、比叡山延暦寺(天台宗)の勢力が強く、布教に限界を感じてしまいます。そこで鎌倉に赴き、鎌倉幕府に庇護を求めたと伝えられています(実際の栄西の経歴はもっと複雑ですが、このコラムではわかりやすいよう要約して紹介しています)。

 そして1200年(正治2年)、北条政子が鎌倉に建立した寿福寺の初代住職に招聘されます。栄西は北条政子のもとで、鎌倉の地に新しい第一歩を踏み出したことになります。

 しかしわずか2年後の1202年(建仁2年)、源頼家の援助によって京都の一等地に建仁寺を開山しているのです。言い換えれば、栄西の京都進出は、源頼家の援助により実現したことになります。

 ところが、このとき頼家はまだ21歳。しかも、栄西が鎌倉で寿福寺の初代住職に就いた1200年から建仁寺が開かれた1202年の間は、頼朝の寵臣だった梶原景時のクーデター(梶原景時の乱)や、景時の庇護を受けていた城永茂による幕府への反乱「建仁の乱」など、頼家にとって息つく暇もない時期でした。これらの反乱自体が、いずれも内部の人間によるクーデターだったのですからなおさらでしょう。

 そんな中での、栄西の京都進出です。事情を総合して考えれば、栄西を手厚く援助していた北条政子が、頼家のことを想って栄西を京都に送り「建仁寺」の建立を後押ししたと考えた方が納得できます。

 ちなみに当時、建仁寺は比叡山との軋轢(あつれき)を避けるため、禅宗だけでなく天台宗、真言宗を兼ねた寺院だったと伝えられています。さらに栄西は、建仁寺の鎮守(守り神)として「京都えびす神社」を建立しています。それだけ用心を重ねてまで、この時期、京に栄西が建仁寺を開山した背景には、北条政子の息子を思いやる気持があったと考えても不思議ではありません。

 というのも建仁寺が開かれた1202年、頼家は征夷大将軍に任じられているのです。頼朝が苦労を重ねてやっと手にした社会的地位を、頼家はわずか21歳で手に入れたことになります。このタイミングで京での鎌倉幕府の地位を安泰にする必要があったことは容易に想像できます。政子はそのために栄西を京に送ったのではないでしょうか?

建仁寺の鎮守として建てられた「京都えびす神社」

北条政子に母の愛がないと断言できるのか?

栄西禅師の茶碑(建仁寺庭園)

 しかし、翌年の1203年(建仁3年)、頼家は3月ころから体調不良を訴え、8月には危篤になり、9月7日に追放されています。殺されたのはその翌年1204年7月。あまりにも早い転落劇でした。

 ちょうどこの頃、栄西は日本で初めて茶の栽培を始めています。宋から持ち帰った茶の種を、京都の栂尾山 高山寺に植えて、高山寺の明恵上人とともに茶の栽培を行いました。現在、栂尾山 高山寺には「日本最古の茶園」が残されています。

 栄西は、頼家の病気がキッカケで薬効がある茶の栽培を始めたのかもしれません。頼家はあっという間に死んでしまいましたが、後の1214年(健保2年)、栄西は、頼家の後を継いだ弟・源頼実の深酒を気遣って、「茶徳を誉むる所の書」(後に「喫茶養生記」とされる書)を献上したことが史料に記されています。

 そんな栄西と頼家のつながりは建仁寺の「開山堂」にも、垣間見ることができました。 建仁寺の「開山堂」は栄西が眠る廟(墓)で、普段は非公開になっています。私が訪れたときはたまたま特別公開中だったため見ることができたのですが、開山堂の内部で栄西が眠る廟に寄り添うように、源頼家の木像が鎮座していました。

 また史料には、頼家の子・栄実が、栄西のもとで出家しており、その手引きをしたのは北条政子であることも明記されています。栄実は頼家が殺されたとき、わずか4歳でした。しかし男の子である以上、将来の謀反を恐れて殺されてしまうのがこの時代の常識です。そんな時代に、頼家の子を生かしておくことは考えられません。

 しかし北条政子は守り、出家するよう導いて、栄西のもとへ送ったのです。ここに、母の愛情がないと断言できるでしょうか。

すべては「距離」があったから?

 『承久記』には、政子が、頼家の弟で三代将軍になった実朝の死を知ったとき、次のように語ったと記されています。

「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」(承久記より抜粋)

 愛情あふれる母親の言葉としか思えません。

 一方栄西も、このような言葉を遺しています。

「大哉心乎」=「大いなるかな心や」=人の心は本来自由で大らかである。

 北条政子とどこか重なって見える意味深な言葉です。

 源頼家には、北条政子の深い愛情も、栄西の思いやりも注がれていたのかもしれません。それなのに後世、今に至るまで、悲劇の将軍と語り継がれたことに胸が痛みます。

 しかし、どうして、そんな事態になってしまったのでしょうか。

 私はその根本に、鎌倉幕府と都(京)の距離があると思います。距離はいつの時代も、誤解や亀裂の原因になるからです。しかも幕府を開いた源頼朝は早くに他界し、幕府の体制がまだ整わない状況のまま、若い頼家に託されてしまいました。電話もメールも新幹線もない時代に、御家人たちが「都はどう思っているのだろう。なんとか信頼をつなぎ留めなければ!」と必死になるのは当然でしょう。幕府と都との距離は大きすぎるリスクだったに違いありません。

 そんな中で、政子が最も頼家のためになると考えたのは「都(京)の信頼を得るための仕組みづくり」だったのでしょう。栄西を京に送って、都の中心部に頼家開基の建仁寺をつくり、都の信頼を得ようとしたのではないでしょうか。

 しかし、疑心暗鬼に囚われてしまった御家人たちに、そんな母心がわかるはずもありません。だから頼家が病気になった途端、「頼家は死んだから、次の将軍を征夷大将軍に」と都に連絡してしまったのでしょう。すべては、距離が生んだ悲劇だったように思います。

 ちなみに、後に江戸幕府を開いた徳川家康は、老中を筆頭とする幕府体制を固めた上で、将軍の座を子供に託した後も、大御所として駿河からにらみを利かせました。さらに死んでからも自分を神として祭る仕組みを整えました。その結果、全国各地に東照宮が建てられ、全国の大名は各地で家康を神として崇拝することになったのです(「やられたら死んでもやり返す 明智光秀“闇”のリベンジ」参照)。

 ここまで幕府の力を浸透させ、体制を万全に整えたからこそ、江戸幕府は都から遠く離れた江戸で264年も栄えたのです。逆にいえば、それほど地盤を固めないと、都から距離のある関東に幕府を開くことは難しかったということができます。信頼関係を固めるために、距離を埋める努力は欠かせないということです。

 もし、あなたの家族サービスの反応がいまひとつというのなら、それは普段、家族との距離があるからなのかもしれません。もしかしたら「仕事が忙しい」という理由で、子供たちと距離を置いてしまっていませんか。そうだとしたら、たとえば「休日だけ家族サービスしたらいい」なんて考えを今すぐ捨てて、普段から子供たちと会話するように心がけましょう。そうすればきっと、特別な家族サービスをしなくても、子供たちの笑顔を見ることができますよ。



【参考資料】
 ・京都最古の禅寺「建仁寺」パンフレット、公式サイト
 ・「北条政子-母の嘆きは浅からぬことに候」(関幸彦/ミネルヴァ出版)
 ・「鎌倉源氏三大記」(永井晋/吉川弘文堂) など

(nikkei BP net 2016.5.16掲載)