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column 京都「人生がラク」になるイイ話

それでも玉の輿に乗る?
家光に見初められた“八百屋の娘”の生涯

玉の輿に乗ったら「人生がラク」になる?

 もうすぐジューンブライドのシーズン。昔からこの季節に結婚する花嫁は幸せになるといわれていることから、結婚式の招待状が増えたり、結婚特集を組む雑誌が増えたりして、なんとなく結婚について考える機会が多くなります。

 ただ最近は「結婚できない人」が増えているのも事実。しかも経済的事情が大きな理由になっているようです。昨年マイナビが発表した「結婚できない理由」調査を見ると、結婚適齢期といわれる25歳から34歳の男女ともに、1位が「適当な相手に巡り会えない」、2位が「結婚資金が足りない」でした。特に男性の30%が「結婚資金が足りない」を理由に挙げているのが目立っています。

 だったら、「お金があれば、幸せな結婚ができる」のでしょうか? セレブな相手を探して「玉の輿に乗る」ことができれば人生がラクになる! そんな考え方も一理あります。

 そこで今回は、「玉の輿に乗ったら、幸せか」をテーマに、歴史エピソードを探ってみたいと思います。主人公は「玉の輿」の語源とされる徳川綱吉の生母・桂昌院ことお玉さん。八百屋の娘から将軍の生母に上りつめた別名“和製シンデレラ”です。

 訪れるスポットは、「玉の輿神社」の異名をもつ京都市北区の今宮神社。お玉さんがすぐ近くの八百屋で生まれたことや、大出世した桂昌院が今宮神社を復興したことから「玉の輿神社」と呼ばれるようになりました。

 ちなみに、この神社は「玉の輿に乗ってセレブな結婚がしたい」と願う女性がたくさんやってくることで有名です。私が訪れた日も若い女性でいっぱいでした。しかし、そんな中にちらほら“逆玉”を狙う(?)若い男性グループの姿も。すでに「玉の輿結婚」はステップアップの手段なのかもしれません。

 だとしたら、ますます「玉の輿に乗る人生」がどんなものか知りたいですね。まずはお玉さんがどんな経緯で、徳川綱吉を産むまで大出世したのか、ご紹介しましょう。

今宮神社東門 若い男性もちらほら

八百屋の娘・お玉さん、とんとん拍子に江戸城へ

 お玉さんの出生については諸説ありますが、最も知られているのは京都西陣の八百屋の娘だったという説です。商人の娘らしく活発な女の子だったそうです。

 ところが突然、八百屋を営んでいた父が亡くなり、お玉さんは父が野菜を納めていた下級武士・本庄家の養女になります。「士農工商」の厳しい身分制度が敷かれていた江戸時代、お玉さんはいきなり商から士へ上ったのです。出世運の強い女性だったのでしょうか。

 さらに本庄家の養女となったお玉さんは、公家出身の尼僧の侍女として奉公することになります。つまり士から公家へと、またひとつ出世階段を上ったことになります。なんとも運の良い女性といえばそれまでですが、公家に奉公に出しても恥ずかしくない聡明な女性だったと理解してもいいのではないでしょうか。本庄家にしてみれば養女にもらった女の子のおかげで、公家と濃い関係を築けるのです。お玉さんは、それだけの価値のある魅力的な女性だったのでしょう。
 
 ただ、ここから先は「運」というしかありません。お玉さんが奉公することになったこの尼僧こそ、後に将軍・家光の側室・お万の方になる人だったのです。

 え、尼僧なのに側室になるの? と不思議に思う人は多いでしょう。実は尼僧が住職を務める寺は伊勢にある慶光院という格式の高い寺院で、公家の姫が剃髪して修行し、住職になる決まりがありました。つまり、お玉さんが奉公した尼僧は、希望して出家したわけではなく、家の決まりで尼になった公家のお嬢様だったのです。

 そんなことから寛永16年(1639年)、尼僧は将軍家に挨拶をするために、江戸城の将軍・徳川家光を訪ねることになりました。当然、お玉もお供をして江戸城に向かいました。恐らく挨拶が終わったら、そのまま帰るつもりだったでしょう。

 しかしここで、とんでもない出来事が起こります。なんと、将軍・家光が尼僧に一目ぼれをしてしまったのです。

 尼僧はそのまま家光の側室「お万の方」として大奥に入り、お玉さんも大奥で暮らすことになってしまいます。お万の方は、その後、大奥を仕切る女傑になったとはよく知られていますが、人生はわからないものですね。

お玉さん、家光の側室になり、5代将軍・綱吉を産む

  さらに、お玉さんも成人すると家光に見初められ、側室になります。どうやらお玉さんはかなり魅力的な女性だったようです。大奥は将軍に見初められて出世したいと願う女の戦場だったと伝えられています。そんな中で家光の目に留まったのですから、相当目を引く女性だったのでしょう。

 そしてお玉さんは家光の子を産みます。しかも運よく男子。後の5代将軍・綱吉です。

 ただ当初は、綱吉の上に2人の男の子がいたため、将軍を継ぐ可能性はほとんどありませんでした。ところがお玉さんは諦めません。「この子が将軍になったときのために」と熱心に綱吉を教育します。そんな中で家光が亡くなり、四代将軍は予定どおり嫡男の家綱になり、側室のお玉さんは出家して桂昌院になります。

 普通なら、ここで諦めますが、お玉さんはまだ諦めません。桂昌院になった後も綱吉の教育に熱心だったそうです。すると、奇跡が起こります。突然、四代将軍・家綱が亡くなったのです。家綱には子どもがなく、家光の二男もすでに他界していました。そう、お玉の子・綱吉しか将軍を継ぐ男子がいなかったのです。

 こうして五代将軍・綱吉が誕生し、八百屋の娘だったお玉さんはなんと、将軍の生母になりました。なんともすごいシンデレラ・ストーリー! お玉さんほど運の強い女性はどの時代を探しても、ちょっと見当たりません。お玉さんが「玉の輿」の語源になったのも頷けます。

玉の輿神社こと「今宮神社」

綱吉の“お犬さま”は、お玉さんの切なる願い

今宮神社にある桂昌院(お玉さん)石碑

 ところで、お玉さんが生んだ五代将軍・徳川綱吉といえば、天下の悪法といわれる「生類憐みの令」を発令した“お犬さま将軍”として知られています。綱吉の時代を描いた時代劇には必ず「お犬さまのお通り~」という声とともに、犬にひれふす武士たちが出てくるので、「綱吉って、政治にうといバカ将軍だったんじゃないの?」という印象を持っている人は多いでしょう。

 しかし、お玉さん(この時点ではすでに桂昌院ですが、このコラムではお玉さんの名称で統一します)側から深掘りすると、この裏に深い事情があったことがわかります。

 もしかしたらお玉さんが一番、自分の「運の良さ」に驚いていたのかもしれません。そして「神仏のおかげ」と信じることで心を落ち着かせていたのでしょう。特に綱吉を身ごもった時から、仏に「男の子が生まれますように」と熱心に祈りをささげるようになりました。その結果、綱吉が生まれ、将軍になったのですから、お玉さんはますます「仏さまのおかげ」と信じたのでしょう。その後、よりいっそう仏教にのめりこんでいきます。

 そんな折、綱吉の嫡男・徳松が5歳で病死してしまいます。たった一人の子どもだったことでお玉さんと綱吉は深い悲しみに沈みます。この後も、綱吉に子どもができることはありませんでした。お玉さんと綱吉は、「これは良い行いが足りないからだ」と信じて、世継ぎの誕生を仏に祈り続けるのです。

 そんな経緯から発令されたのが「生類憐みの令」です。お玉さんと綱吉が「動物たちを大切にする良い行いをすることで、世継ぎに恵まれる」と信じたと伝えられています。

 このときの綱吉の言葉です。

「この世の誰もが慈悲の心を持ち、他に仁愛を施さなければならぬ。しかし、実際には万物の命を奪いながら誰ひとり顧みるところがない。なんとも嘆かわしいことじゃ」(「観用教戒」より抜粋)


お玉さんは幸せだったのか?

  天下の悪法として名高い「生類憐みの令」も最近では、福祉社会づくりの走りだったと高く評価する専門家も現れ、評価が変わってきたようですが、少なくとも江戸時代においては「なんて馬鹿な将軍なんだ!」といった評価が下されていたことは否めません。

 もしかしたら、綱吉に子どもができなかったのも、「綱吉の血を継ぐ将軍をつくってはならない」と判断した大奥の調整によるものだったのかもしれません。というのは、お玉さんが奉公していた「お万の方」が子どもを産まなかったのは「公家の血を将軍家に入れてはならない」と考えた大奥の調整だったと伝えられているのです。お万の方は妊娠すると堕胎薬を盛られていたという、可哀想なエピソードも残っています。

 いったん子どもに恵まれた綱吉にその後、世継ぎが生まれなかったのは、大奥が「綱吉の血を後の将軍に受け継がせてはならないと調整した」と考えた方が自然でしょう。そんなドロドロとした状況の中で綱吉を守り続けたお玉さんは、本当に幸せだったのでしょうか?

 晩年、お玉さんは京都の寺社の復興に力を注いでいます。特に故郷の今宮神社に対する崇拝と西陣への思いは非常に強かったと伝えられています。そして元禄7年(1694年)には御牛車や鉾を寄進し、祭事の整備や氏子区域の拡充も行われました。さらに社領として50石が与えられています。

 もしかしたら、お玉さんは京に帰りたかったのではないでしょうか。その思いを込めて、今宮神社の復興に力を注いだのかもしれません。

今宮神社「神輿」

もし八百屋の娘のままだったら……

今宮神社の東門前には、名物「あぶり餅」があります。祭事で用いられた竹や供え餅を、参拝する人々に厄除けとして配ったのが始まりとされ、今は親指大にちぎった餅にきな粉をまぶし、竹串に刺したものを備長炭であぶって、白みそのたれをかけた状態で客に提供されています。その香ばしい味は特に女性に人気だそうです。

伝統の「あぶり餅」

 店は2軒あり、1軒は1000年の創業で、もう1軒は江戸時代初期の創業だそうです。きっとお玉さんも食べたのでしょう。忘れられない故郷の味だったかもしれません。

 お玉さんが晩年に詠んだ歌です。

「法の師の をしえてたまうにならいそて わが後の世も たのみこそすれ」
(もう何年も仏の教えに触れています。ですからどうか、後の世も人々が幸福でありますように)

 すべてを仏のおかげと信じたお玉さん。晩年には後の世の幸せまで祈っています。幸運に恵まれ続けた人生は、お玉さんが一番、信じられなかったのでしょう。歴史に残る「玉の輿結婚」は、お玉さんにとってストレスそのものだったのかもしれません。そのストレスがお玉さんを仏教に誘い、綱吉に「生類憐みの令」を発令させ、天下の悪法と後の世までののしられる結果を生んでしまったのかもしれません。

 お玉さんがちょっとかわいそうになってきました。八百屋の娘のままだったら、同じ商人と結婚してのびのびと暮らしていたのかもしれなかったのですから。

 いずれにしても玉の輿結婚は、かなりのストレスを抱えることは間違いないようです。

 もし「玉の輿結婚」のチャンスが舞い込んでも、すぐに飛び付いてはいけません。お金がなくて結婚できないストレスと、「え?信じられない」と思いながらストレスに耐える人生とどちらが幸せになれるか、慎重に考えて決めた方がいいでしょう。

今宮神社東門前にある「あぶり餅」

【参考資料】
 ・「今宮神社」公式サイト、パンフレット
 ・「大奥のすべてがわかる本」(日本博学倶楽部)
 ・「徳川綱吉(人物叢書)」(塚本学/日本歴史学会) など

(nikkei BP net 2016.5.30掲載)