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column 京都「人生がラク」になるイイ話

「真田幸村」は架空の名前?
江戸時代に大ヒットしたネーミングのイイ話

ヒットを生むネーミングとは

 新商品を販売するときも、プロジェクトを立ち上げるときも、どんな商品名やタイトルをつけるかによってその後の動きが大きく変わることは、もはやビジネスの常識といえるでしょう。「ネーミング」には人の心を動かすチカラがあるからです。

 しかし、ヒットを生もうとすればするほどネーミングは難しいもの。何回も会議を開いて「ああでもない、こうでもない」と議論を繰り返した結果、なかなか決まらないので「上層部に決めてもらおう」と判断を仰いだところ、平凡な名前に収まってゲンナリした……そんな経験を持つビジネスパーソンは多いのではないでしょうか。

 だからこそ、ヒットを生むネーミングのコツを、ぜひ身につけたいものです。

 そこで今回は、江戸時代に大ヒットし、今も人々の心をとらえて離さない“名前にまつわるエピソード”を深掘りしてみたいと思います。主人公は、まさに今、NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公になっている戦国時代のヒーロー・真田幸村。というのは、この「幸村」という名前こそが、ヒットを生むネーミングだったかもしれないのです。

 訪れるスポットは、京都市のビジネス街にひっそり佇む「高松神明神社」。この神社は、醍醐天皇や後白河法皇にちなんだ非常に由緒ある社ですが、その傍らになぜか真田幸村の持念仏が地蔵尊として祭られているのです。

 幸村は京都にはほとんどゆかりのないはずの戦国武将。それなのになぜ、彼の持念仏が、この場所に祭られているのでしょうか。そこに「幸村」の名前が生んだ、人の心を動かすパワーが感じられるのです。

 それでは早速、「真田幸村」の名前にまつわるエピソードからご紹介しましょう。

高松神明神社

「真田幸村」は実在しなかった?

 真田幸村といえば、戦国時代のヒーローとして誰もが知っている歴史上の大人物。しかし、NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公の名前は「真田信繁」で「幸村」ではありません。なぜ「幸村」ではないのか、不思議に思っている人も多いのではないでしょうか?

 実は私もそのひとり。いつまでたっても「真田信繁」のままなので、いつになったら幸村に変わるのか調べてみました。すると、なんと!「幸村は架空の名前」という説が今は最有力だというではありませんか。すっかり「実在した名前」と思っていたので、びっくりしてしまいました。

 もっとも「幸村」の名前については諸説あり、なかには「大坂城」に入城したときにみずから改名したという説もあるのですが、それを立証する史料はひとつも残っていないので、現在は江戸時代になってから命名されたという説が有力と言われているのです。

 詳しく説明すると「真田幸村」はそもそも、本人が亡くなって57年後の1672(寛文12)年、万年頼方(まんねんよりかた)と二階堂行憲(にかいどうゆきのり)が書いた「大坂の陣」を描く小説「難波戦記(なにわせんき)」に登場した名前だそうです。

 その中で「大坂の陣」で徳川家康を追い詰めた「真田幸村」に人気が集まったため、「真田幸村」の活躍を中心に父と子の三代を描いた講談「真田三代記」が発表されました。それがまたヒットしたため、幸村を支えた忍者「猿飛佐助」の物語や「真田十勇士」も登場し、本名の「真田信繁」よりも「幸村」の方が有名になってしまったというのです。

 しかし、なぜ「難波戦記」に登場する真田信繁は「幸村」だったのでしょうか。

魂を清める「水琴窟」幸村の魂も鎮めている?

徳川幕府のパワハラを避けるため?

  「難波戦記」に「真田幸村」が登場した経緯についても諸説ありますが、最も腑に落ちるのは、「徳川幕府のパワハラを避けるため」という理由です。なんといっても江戸時代に絶対権力を持っていた徳川幕府を開いた神様・徳川家康が、田舎の小さな大名にすぎない真田信繁によって、死の直前まで追い詰められる物語なのですから。

 いつの時代も、時の権力者を追い詰める物語には人気が集まるものですから、実名を書いたりしたら、徳川幕府が黙っていないと考えるのは当然でしょう。

 時期的にも「難波戦記」が世に出た1672年(寛文12年)は、元禄文化が花開く直前にあたるため、天下泰平に安心した一般庶民たちが、心躍る面白い物語を求め始めていた頃といえます。そんな時代のニーズに“徳川家康を追い詰めた物語”はぴったり合ったのでしょう。だからこそ、万年頼方と二階堂行憲は、地元に伝わる「大坂の陣」の物語を書いてヒットを狙ったのでしょうが、真田氏がまだ信州の「松代藩」を治めていることを考えると、主人公を架空の名前にせざるを得なかったと考えられます。

 真田氏の実在の祖先が、徳川家康を追いつめたという史実が有名になったら、松代藩の真田氏は江戸幕府への体面が保てなくなるでしょう。それになんといっても「難波戦記」の出版そのものを、徹底的に潰される恐れもあります。

 史料には、江戸幕府は「難波戦記」の出版について、決して良い顔をしたワケではなく、出版の邪魔をしたという記録も見られますが、「架空の小説」という理由でそれほど厳しい処罰の対象にはならなかったようです。

 今では誰もが知っている「猿飛佐助」の物語や、「真田三代記」「真田十勇士」が人気を集めることができたのも、「真田幸村」が実在しない人物という前提があってこそ実現できたと言えるのでしょう。つまり「真田幸村」の名前は、真田信繁の活躍と「大坂の陣」の史実を後世に伝えるため、そして何より「難波戦記」をヒットさせるための戦略的ネーミングだったわけです。

 ちなみに、「幸村」の名前の成り立ちを調べてみたところ、これも諸説あり、どれが正しいとは言えません。しかし、なんといってもハッピーを意味する「幸」と小さな大名を連想する「村」の組み合わせが痛快な物語を彷彿させます。もし「信繁」のままだったら、ちょっと印象が違っていたかもしれません。

 特に、「真田三代記」や「真田十勇士」は講談で人気となっています。「幸村」と「信繁」では、聞こえる音のニュアンスが違っていたのは明らかです。濁音はない方がスッキリ聞こえるのですから。

 つまり「幸村」こそが、絶対権力者に真っ向から挑むヒーローにふさわしい名だったと言えるでしょう。だからこそ人々はこの物語に夢中になり、これまで語り継がれてきたのかもしれません。人の心をつかむネーミングは、人を動かすパワーを持っているのです。

 そこで、「真田幸村」にちなむエピソードを、さらに深掘りしてみました。

なぜ、京都のすごい神社に幸村の持念仏が置かれたのか

 「難波戦記」がヒットした120年ほど後のこと、京都の由緒ある「高松神明神社」に幸村の持念仏が「地蔵尊」として祭られました。京都にゆかりの薄い真田幸村の持念仏がなぜこの場所に、しかも「神社の中の地蔵尊」として祭られたのでしょうか。私は不思議に思って、調べてみました。

 しかし、どんなに調べても以下の説明しか見つかりません。

「寛政6年(1794)に高松神明宮宝性院の社僧だった天宥法印が、紀伊国(和歌山県)の伽羅陀山(真田庵)に安置してあった真田幸村の念持仏を拝領して持ち帰った」(京都府「高松神明神社」説明資料より抜粋)

 そこで幸村の持念仏を持ち帰った「天宥法印」について調べてみました。もしかしたら真田氏に縁の深い僧かもしれないと思ったからです。

 しかし、もともとは山形県鶴岡市の高僧だったという記録しか見つかりませんでした。その後、何かの理由で東京の新島村へ流罪となり、そこで天に召されたようです。新島村の「天宥法印の墓」の説明文には、次の記述があります。

天宥法印は出羽国(今の山形県)羽黒山の高僧で寛文8年(1668)、公事出入の罪で流罪になっており、「新島流人帳」に記された最初の流刑者である。羽黒山50代別当執行寶前院天宥は、天台宗一宗への統一、職別の改革活動の促進。また、本堂の造営、参道の改修、植林開田、治水等一山の興隆を願って大改革を断行した。(新島村「天宥法印の墓」紹介文より抜粋)

 つまり、もともと天宥法印は東北の高僧だったということです。それがどのような経緯で京都の「高松神明神社」の社僧を務めていたのかは謎ですが、真田氏とは縁もゆかりもないことは確かなようです。そんな天宥法印が紀伊国でたまたま「真田幸村の持念仏」をみつけて、京都に持ち帰り、「地蔵尊」としてお祭りした……もしかしたら、以下のような理由だったのではないでしょうか。

 天宥法印は「難波戦記」や「真田三代記」を読んで、すっかり真田幸村ファンになっていた。たまたま紀伊国へ行って、真田幸村の持念仏と出会い、「あの幸村の持念仏ならぜひ、私の手元で供養したい」と持ち帰った……。

 つまり、天宥法印は「真田幸村の大ファン」だったということです。もちろん想像にすぎませんが、この理由であれば納得できませんか? 私たちも、大好きなタレントやスポーツ選手の持ち物は手に入れたいし、できるだけ丁重に飾っておきたいと思いますから、天宥法印が幸村の持念仏を丁重に「地蔵尊」として社に祭った気持ちがわかるような気がします。

真田幸村の持念仏がまつられた「地蔵尊」

由緒ありすぎの神社で、今も大切にされる「真田幸村」

真田氏の家紋があしらわれた「高松神明神社」のお札

 というのも、天宥法印が幸村の持念仏をまつった「高松神明神社」がまた、すごい神社なのです。そのすごすぎる由緒を少しご紹介しましょう。

 高松神明神社の歴史は平安初期、醍醐天皇の皇子で源朝臣の姓を賜った源高明公の御殿「高松殿」に伊勢から天照大神を招き、鎮守社としたことが始まりとされています。これだけ由緒ある社なだけに、その後の歴史も格別です。

 あの源平合戦を引き起こした後白河法皇が即位し、御所として使ったのも「高松殿」つまりこの場所で、「保元の乱」で天皇方についた平清盛と源義朝が集まったところでもあるのです(後白河法皇と源平合戦の関連については「源氏と平氏を操った後白河法皇、熊野詣と源平合戦の意外な関係」をご参照ください)。

 ところがその後、1160年(平治元年)の「平治の乱」が起こった時に「高松殿」は焼失し、社のみが残ったそうです。

 天宥法印が高松神明神社の社僧になったのは、600年以上も後の江戸時代のこと。どんな経緯でこの場所に来て、神社の境内に「真田幸村」の持念仏を地蔵尊として祭ったのかはどこにも記録がなく、想像するしかありませんが、これほど由緒ある社だからこそ幸村の持念仏を祭るにふさわしいと考えたとしても不思議ではありません。

 「あなたの功績は、大ファンである私が京都の最も由緒ある社で供養しますよ。だから安心してください」――地蔵尊からはそんな天宥法印のメッセージが聞こえてくるようです。

 繰り返しますが、この説はあくまで“仮説”であって想像の枠を超えません。

 しかし、「真田幸村」の名前が、真田信繁をヒーローにし「大坂の陣」をドラマチックに語り継いだことが、まったく縁もゆかりもない人を動かしたことは否定できません。

 ヒットを生むネーミングのコツは、「いかにストーリーを端的に表現しているか」ということかもしれません。新商品やプロジェクトのストーリーを一言で表現できる商品名やタイトルをつければ、多くの人を動かして、ヒットするのかもしれませんね。



【参考資料】
 ・京都府「高松神明神社」観光資料
 ・跡部蛮 『真田幸村「英雄伝説のウソと真実」』(双葉社)
 ・東京都新島村「天宥法印の墓」資料  など

(nikkei BP net 2016.7.11掲載)