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column 京都「人生がラク」になるイイ話

大河ドラマの主役は無理?
足利義満が侵した「聖域」とは

「評価されない」と悩んだら、足利義満を思い出せ

 「自分で言うのも何だけど、私はずいぶん会社に貢献していると思う。なのに、会社は私を評価してくれない。どうして?」――。

 そんなことを思っているビジネスパーソンは多いのではないでしょうか。それどころか、ちょっと目立った功績をあげた後輩の方が評価されて、とんとん拍子に出世したりしたら、たまったものではありません。どうして自分は評価されないのか、きちんと理由を知って、早めにリベンジしたいものです。

 そこで今回は、びっくりするほど中世の日本に貢献しているのに、なぜか大河ドラマの主役になれない足利義満について、その理由を探ってみたいと思います。

 足利義満といえば京都の「金閣寺」をつくった足利幕府3代将軍で、アニメ「一休さん」に出てきた時の権力者……それくらいのイメージしかない人は多いのではないでしょうか。

 ところがよく調べてみると、義満は史上最大の内乱といわれる「南北朝の動乱」を鎮め、金閣寺をはじめ、能、狂言、水墨画など、その後の日本文化をリードした「北山文化」を生み出すなど、織田信長や豊臣秀吉に負けない活躍をしているのです。この義満の功績は、「今の日本の歴史と文化は義満がいなければ成り立たなかった」といっても過言ではないでしょう。

 それなのに、なぜか足利義満を主役として描いたNHK大河ドラマは一度も見たことがありません。それどころか映画や民放の時代劇ドラマを調べても、足利義満を主人公とした作品は見当たらないのです。

 ちょっと不思議だと思いませんか? そこで早速足利義満とはどんな将軍だったのか、経歴から調べてみました。

京都フリー写真「金閣寺」

室町時代のスーパー権力者

 まず足利義満がどんなに凄かったか、朝廷から任じられた主な位を列記してみましょう。

1369年(正平23年/応安元年)11歳:征夷大将軍。
1374年(文中2年/応安6年)16歳:従四位下、参議。左近衛中将。
1375年(天授元年/永和元年)17歳:従三位。参議左近衛中将如元。
1378年(天授4年/永和4年)20歳:権大納言。右近衛大将兼任。
1381年(弘和元年/永徳元年)23歳:内大臣。右近衛大将如元。
1382年(弘和2年/永徳2年)24歳:左大臣。右近衛大将如元。後円融院別当兼務。
※各年に元号が2つあるのは「南北朝時代」のため。

 ざっと、主な位を挙げてみましたが、このうちの一つだけでも十分、権力者として通じるものばかりです。ちなみに義満が最初に任じられた「征夷大将軍」は、源頼朝がこの位を得たことで鎌倉幕府を開くことができたほどステータスの高い位です。その後、徳川家康も歴代の江戸幕府の将軍も、征夷大将軍に任じられることが将軍になる条件のようになっていました。

 義満が24歳のときに任じられた「左大臣」は、「右大臣」と並ぶ朝廷の最高機関で、平安時代に天皇の摂関政治を行っていた藤原道長や藤原頼道が就いていた位です。つまり義満は、公家でさえなかなか手の届かない官位に次々と任じられていたことになります。

 また、そんな環境で育ったことが、義満の価値観を大きく変えたようです。義満が「南北朝の統一」を成し遂げたまでは良かったのですが、その後、「日明貿易」に熱中するあまり、自分を「日本の国王」にしてしまったのです。

 当時、明(現在の中国)は世界をリードする存在で、明には日本にはない質の高いモノや文化がたくさんありました。義満はそれが欲しくてたまらなかったようです。

 ところが明は、貿易相手国は明の属国になること、その上、明と取引できるのは国王だけと定めていました。これについて朝廷は「属国になるなど、とんでもない」と拒否しましたが、義満は明との交易を優先して、自分を「日本の国王」とし、交易のために明の属国になる方向へ話を進めたのです。

 室町時代の外交文書を記録した『善隣国宝記』には、明との国交樹立を独自に模索し、明皇帝から日本国王と認められた義満の返書に「自分は日本国王であり、明皇帝の家臣である」とする文言が記されています。

 さすがに、これには朝廷も黙っていませんでした。天皇の立場をないがしろにするとして義満を激しく非難します。勝手に「国王」になって、日本を明の「属国」と認めたのですから当然といえるでしょう。

すでにグローバルな視点を持っていた?

 しかし、いくら朝廷を軽く見ていたとしても、そう簡単に「自分を国王」とするとは考えられません。義満は「南北朝時代」を収めた政治家でもあるのです。ではなぜ、そこまで明との貿易にこだわったのでしょうか?

 調べたところ、諸説ある中でも、当時の国際通貨(現在の米国ドルのような世界に通じる基軸通貨)だった明の「永楽通宝」を手に入れるためという説が最も有力だとわかりました。

 義満は、すでにグローバルな視点でモノを見ていたということです。そんな中で「南北朝時代」に育っていた経緯もあって、朝廷を軽く見ていた可能性は否定できません。言い換えれば、こんなことを思っていたのではないかと推察できます。

「朝廷の意向よりも今、日本は国際通貨を手に入れて国を豊かにすることが先決だ。世界をリードする明の属国になることは、今の日本にとって必要なことだ」

 確かに当時、政府が2つあるような「南北朝時代」は不安定極まりなく、国内は荒れていました。今の地方行政のような役割を持つ「守護」の権限がどんどん大きくなり、年貢の取り立てが厳しすぎて「土一揆」が頻発し、不安な日々を送っていたと言われています。義満は、明との交易で、そんな国の国王とか立場とかを考えるより先に、国が豊かになる道を明との交易に求めたのかもしれません。

 事実、義満の「日明貿易」のおかげで、後に茶道の発展に寄与する「唐物」といわれる質の高い陶器や、「太平記」などの大陸文化が入り、華やかな「北山文化」が生まれました。能、狂言、水墨画など、現在の日本文化の中枢を担う文化は、このとき発展したものです。その華やかさを代表するのが「金閣寺(鹿苑寺)」といわれています。

 このような視点で義満を見ると、すでにグローバルな視点をもって国内を見ていた可能性は否定できません。また、「明のモノや文化が国内に良い影響を与える」と判断したとすれば、「モノを見る目」にも優れていたと考えられます。

宇治茶の可能性を見抜いた義満

 義満の「モノを見る目」が優れていたことを語るエピソードは、日明貿易以前にも見られます。まだ21歳だった1379年、義満は宇治に「宇治七名園」を整備し、宇治茶の発展の礎をつくっています。

 それまでは、初めて茶の木が植えられた栂尾山 高山寺で栽培される茶が「本茶」とされ、宇治で栽培されていた茶は高山寺から移植された茶に過ぎず、補佐的な位置づけとされていました。しかし義満が整備した「宇治七名園」を基盤に宇治茶栽培の技術が発展し、後に「宇治茶」は日本一のブランドになっていくのです。

 なぜ義満が「宇治七名園」を整備したのか、理由が書かれている史料は見つかりませんでしたが、仮に宋からもたらされた茶の可能性を見抜き、高山寺よりも宇治の方が温暖で湿度が高く、茶栽培に適した自然環境にあることに気づいたのであれば、それだけ義満には「モノを見る目」が備わっていたということになります。

 宇治茶はその後、織田信長や豊臣秀吉からも重宝され、千利休が完成させた「わび茶」にも大きく貢献しました。さらに「わび茶」には、日明貿易で輸入された「唐物」も大きくかかわっています。もし義満がいなかったら、宇治茶や茶道がこれほど発展することは無かったかもしれません。

宇治は水も豊富(写真は宇治川)

「聖域」に入ったらダメ!

 このように宇治茶をはじめ、能、狂言、猿楽、水墨画、「太平記」のような文学といった「北山文化」をおこすなど、義満は日本文化の発展に欠かせない存在なのです。

 それなのに、大河ドラマをはじめ、映画でも時代劇ドラマでも主人公になれないのは、「勝手に日本国王と名乗り、属国になるように仕向けた」という事実が悪評となり、後の世に語り継がれてしまったからでしょう。そして悲しいことに、明から国王と認められた6年後、義満は突然体調を崩し、そのまま亡くなっていますが、それは「暗殺だった」とささやかれているのです。

 まとめると、義満が今も評価されないのは、朝廷という「聖域」に入ったことが原因のようです。その証拠に、朝廷や公家とは異なる「武将の世界」で争った戦国時代には織田信長や豊臣秀吉、徳川家康をはじめ多くのヒーローが出てきて、今もスゴイ評価を得ています。大河ドラマに戦国時代や幕末を描いた作品が多いのも、「聖域」とは違う「平等」の世界で戦うヒーローが評価されるからなのかもしれません。

 この足利義満のエピソードは、「なぜ、頑張っているのに評価されないのか」と悩むビジネスパーソンに、ひとつのヒントを示しているように思います。どんなにあなたが優秀で、会社の発展に貢献していても、「聖域」に入ったらすべて悪評になってしまう恐れがあるということです。

 たとえば、あなたの中で「こうしたら、もっと良くなるのに」というアイデアがあっても、今の上司がそれを理解できなければ、提案するのを止めた方が無難ということです。上司がアイデアを握りつぶすだけならまだいいのですが、「偉そうなこと言いおって、あいつは憎らしい」とか「上司の自分を差し置いて、生意気なこと言いやがって」なんて悪く思われたら、あなたが損をするだけです。なぜなら、上司の価値観は「聖域」だからです。

 代わりに「聖域」のない分野で実力を伸ばしましょう。たとえば文学や芸術に優れているなら、個人的に「賞」を目指すのもいいかもしれません。ロジカルシンキングに強いなら資格に挑戦して、次のステージへ飛躍するのも一考です。やり甲斐を感じられると思いますよ。

義満が奨励した茶の栽培



【参考資料】
 ・京都市上京区 公式サイト「秀吉の都市改造」
 ・晴明神社 公式サイト
 ・茶話指月集江岑夏書 (現代語でさらりと読む茶の古典)(谷端昭夫/淡交社)など

(nikkei BP net 2016.8.8掲載)