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column 京都「人生がラク」になるイイ話

徳川慶喜に学ぶ
「終わらせる技術」

引き際が一番難しい

 ビジネスパーソンにとって、仕事における最大の目的はビジネスを成功させること。ただ、そのためにしばしば「終わらせる」決断を迫られることもあります。特に長く続いている事業ほど、既得権益にしがみつく人々の反対に悩まされ、ついずるずると継続してしまうもの。そのうち、いつのまにか会社全体がおかしくなってしまうことも少なくありません。

 そこで今回は、265年続いた徳川幕府にみずから終止符を打ち、「大政奉還」を成し遂げた“最後の将軍”徳川慶喜のエピソードを深掘りしてみたいと思います。

 265年も政権を持ち続けるということはすごいことです。日本史上において最も長く政権を握っていたのは藤原氏といわれていますが、最も安定した長期政権という視点では徳川家が一番かもしれません。

 また265年は、社会の空気や人々の価値観を変えるに十分すぎる年月です。産業界に例えるなら、今から265年前の1751年といえば、「産業革命」が起こる85年以上も前。つまり人がモノづくりを始めてからパソコンやインターネットを使いこなし、飛行機で地球のどこへでも行けるほどにまでなった産業の歴史は、徳川幕府の歴史よりずっと短いのです。

 それほど徳川幕府の歴史は長く、日本に定着していたということです。当然、既得権益は多すぎるほど存在し、人の価値観は「徳川様が一番」で染められていたことでしょう。そんな中で、一番の権力者である将軍の座につきながら、自ら「終わらせた」その勇気は相当なものだったと推測できます。

 それだけに徳川慶喜にはどこか卑怯で計算高いイメージがつきまとっています。映画やドラマでも、「敵前逃亡した卑怯なリーダー」と揶揄する傾向は拭えませんでした。それほど時代の価値観とは異なる視点を持っていたからこそ、大政奉還も成し遂げられたのかもしれません。

 しかし今、改めて彼の決断を時系列で分析してみると、慶喜は重大な節目で最も適切な解決策を見出していたことがわかります。もし、徳川慶喜がいなかったら、日本は荒れ果て、ともすれば外国の植民地になっていたかもしれないからです。

 それでは、慶喜の重大な決断はどう下されたのか、彼の「終わらせる技術」に迫ってみたいと思います。

世界中から観光客が集まる「大政奉還」の舞台「二条城」

元服の翌年、黒船来航

 徳川慶喜の経歴はとても有名なので、このコラムでは「心の節目」に注目しながら、何が「幕府を終わらせる」という決断に導いたのかを探っていきます。

 まず多感な少年時代。慶喜は10歳で一橋家を相続し慶喜に改名、15歳で元服しています。元服した翌年1853年(嘉永6年)には黒船が来航。16歳の慶喜は水戸で、外国に抗戦するための戦支度をしたと伝えられています。

 幕末の志士の多くが黒船のすごさに影響を受けたと伝えられていますが、慶喜も例外ではなかったでしょう。特に16歳の多感な時期だっただけに、衝撃的な出来事だったのではないでしょうか。

 しかもその4年後、1857年(安政4年)20歳のとき、徳川家定の後継問題で有力候補となり、紆余曲折はあったものの、1866年(慶応2年) 29歳で徳川宗家を相続し、征夷大将軍に就任、第15代将軍の座についています。

 この10年間は慶喜にとっては“花の20代”。 最も仕事に情熱を持てるときなのに、「安政の大獄」で蟄居(ちっきょ)させられたり、将軍後見職に就任したり、1864年(元治元年)27歳のときには「禁門の変(蛤御門の変)」で抗戦の指揮を執ったりしていたのです。少なくとも“将軍になる人の仕事”ではなかったといえるでしょう。

 その影響でしょうか。慶喜は「禁門の変(蛤御門の変)」の後、就任していた「従二位権大納言昇叙転任」を固辞し、「禁裏御守衛総督」も辞職してしまいます。そして父の斉昭にこう言ったと伝えられています。

「骨が折れるので将軍になって失敗するより、最初から将軍にならない方が大いに良い」

 もしかしたら、慶喜は早くから「徳川幕府を終わらせなければならない」と感じていたのかもしれません。だからこそ「終わらせる役目」を担う将軍になることを嫌がったのでしょう。

 しかし、慶喜は将軍にならざるを得なくなります。その時「幕府を終わらせるために」将軍になったという説もあるほど、慶喜の気持ちは幕府から離れていたようです。一説では幕府を倒した後、新たな政権を徳川家が担う計画だったと伝えられていますが、どちらにしても265年続いた徳川幕府にはイノベーションが必要と思っていたようです。

 そして将軍になった翌年の1867年(慶応3年)、「大政奉還」を成し遂げ、征夷大将軍職も辞職しています。慶喜30歳のときのことでした。

 大政奉還の舞台となった「二条城」は、現在、桃山から江戸の文化を伝える世界文化遺産として、多くの外国人観光客が訪れる名所になっています。二条城は1603年(慶長8年)徳川家康が造営して以来、徳川家のものでしたが、慶喜の大政奉還により朝廷のものとなり、1884年(明治17年)離宮になって1939年(昭和14年)に京都市に下賜されました。もし慶喜の大政奉還がなければ、私たちがこの建物を見ることは無かったかもしれません。

徳川幕府の栄華が偲ばれる二条城庭園

慶喜が「敵前逃亡」しなかったら……

 そして、慶喜の貢献は大政奉還に止まりませんでした。

 大政奉還の翌年、明治維新が起こる1868年(慶応4年/明治元年)には、新しい世が受け入れられない旧幕府軍と新政府軍が対立し「戊辰戦争」が起こり、「鳥羽・伏見の戦い」で慶喜が旧幕軍を率いて挙兵しました。このとき苦戦はしたものの、新政府軍約5000人に対して旧幕府軍は約1万5000人と3倍の規模だったため、旧幕府軍は勝つ可能性はあったと伝えられています。

 ところが慶喜は旧幕府軍に「最後の1人になるまで戦え」と発破をかけた後、自分は江戸に退去してしまいます。これが後に、「敵前逃亡した」と非難され、その後の慶喜の卑怯なイメージにつながってしまいます。

 しかし、もしこのとき慶喜が退去しなかったら、日本はどうなっていたでしょうか。

 江戸時代の価値観から抜け出せない旧幕府軍は、慶喜の挙兵に喜び、再び時を江戸時代へ戻そうと熱くなっていたのです。そんな武士たちの求心力を解くには、「この将軍、ついていく価値などない」とがっかりさせるしかないでしょう。事実、慶喜が「逃げた」と知った武士たちは戦意をなくし、軍は解散しています。多くの日本人の命が救われたのです。

 前回「皇女和宮、京都から東京へ戻ったのは愛を貫くため?」でも書きましたが、このとき、旧幕府軍にフランスが、新政府軍にはイギリスがついていたという説があり、もし武力対決があったら、多くの武士が命を落としていただけでなく、日本は外国の占領下に置かれた可能性も否定できませんでした。

 どちらにしても慶喜の「敵前逃亡」は、日本を救う一助になったことは否めません。

幕末の動乱を今に伝える二条城の釣鐘

慶喜には違う世界が見えていた?

大政奉還の後、朝廷の離宮になった歴史がしのばれる

 戊辰戦争が終わると、慶喜の謹慎は解除され、その後約30年にわたって静岡で暮らしながら、趣味に没頭していたと伝えられています。写真を撮ったり、油絵を描いたりする姿は徳川幕府の将軍だったとは思えず、地元の人々からは「ケイキさん」と親しまれていたそうです。

  このことはある意味、慶喜のすごさを物語っています。つい数年前まで、徳川将軍は誰もがひれ伏す最高権威だったのに、慶喜にはそんな地位にこだわる素振りはなく「俺を誰だと思っているんだ」といったような高圧的な態度もなかったと伝えられているからです。なかなかできることではないと思いませんか?

 もしかしたら、慶喜には他の人とは異なる広い世界が見えていたのかもしれません。だからこそ、徳川将軍の権威にしがみつくことなく、大政奉還を成し遂げることができたのでしょう。

 その根底には16歳のときに「黒船」がやって来て、20代のすべてを幕末の混乱の渦中で過ごし、壮絶な現場をくぐり抜けてきた体験が生かされていたのかもしれません。慶喜の記録には、その間、積極的にフランス語を学び、舶来の珍しい品々を買い求めたエピソードも残っています。そんな海外の文化に触れ、日本国内の混乱を目の当たりにしているうちに「日本はなんて小さな存在だろう。徳川幕府はもっとチッポケだ」と思ったのかもしれません。

 また、そんな「ケイキさん」は明治政府にも評価されています。趣味に没頭していても、徐々に「従四位」⇒「正二位」⇒「従一位」と出世を果たし、1897年(明治30年) 60歳のときに東京・巣鴨に移住し、翌年には明治天皇に30年ぶり(大政奉還以来)に謁見しています。

 さらに1902年(明治35年)65歳のとき公爵となり、徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」を創設し、貴族院議員にも就任。1908年(明治41年)71歳のとき「大政奉還」の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章授し、73歳で慶久に家督を譲って隠居した4年後、1913年(大正2年)77歳で死去しました。

 政権を奪われた“支配者”とはとても思えない幸せな晩年です。

 結局、慶喜は徳川将軍の中で最も長生きし、徳川幕府はなくしても「徳川家」の血筋をしっかり残して、明治天皇から勲章をいただき、貴族院議員にも就任していたのです。改めて、「徳川慶喜」のすごさが伺えます。

視野を広げることがポイント

 この徳川慶喜のエピソードは、そのまま「終わらせる技術」として役立てることができます。最も重要なのは、終わらせたいモノに執着しない広い視野を持つこと。そうすれば、慶喜が当時の価値観では恥ずかしい「敵前逃亡」も行ったように、細かいことを気にすることなく、当初の目的に対してブレずに突き進むことができるのです。

 「うまくいかないプロジェクトに終止符が打てない」「転職したいけれど、今の仕事を辞める勇気がない」「ずるずる続く悪縁を切りたい」――もしあなたが、そんな悩みを持っているなら、まずは自分の視野を広げる努力をしてみましょう。

 慶喜のように趣味を広げるのもひとつの手かもしれません。執着を捨てて、別の世界に入り込めれば、たちまち今、終わらせたいモノがチッポケに見えて、ラクに終止符を打つことができるでしょう。

 世の中はまだまだ広い……そんな視点が必要だと、慶喜は教えてくれているのではないでしょうか。

歴史深い二条城庭園の風景

【参考資料】
 ・「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一著/平凡社東洋文庫)
 ・「最後の将軍-徳川慶喜」(司馬遼太郎/文春文庫)
 ・二条城パンフレット、公式サイト など

(nikkei BP net 2016.8.22掲載)