T.M.OFFICE

column 京都「人生がラク」になるイイ話

成功する転職は
「新選組」のメソッドに学べ

「忠義」と「誠」が転職成功のカギ?

 最近、転職するビジネスパーソンが増えました。しかし転職は諸刃の剣。キャリアアップのチャンスである一方、「こんなはずじゃなかった」と後悔することも多々あります。

 原因は、実際に働いてみないと、その会社が自分に合うか否かわからないところにあります。学生ならインターンシップという手段がありますが、社会人になってから会社を変わる場合にそんな手段はほとんどなく、本気でやってみるしかないのが実情です。だからといって転職を繰り返していると「すぐ辞める人」という烙印を押され、どんどん条件が悪くなってしまいます。

 そこで今回は、幕末の京都で活躍した「新選組」のエピソードを深掘りしてみたいと思います。「えっ、転職がテーマなのに、忠義で知られる新選組なの?」と違和感を覚える人も多いでしょう。転職にはどこか、「せっかく雇ってくれた会社を裏切る」といった忠義に反するイメージがあるからです。

 しかし新選組の成り立ちには現代人の転職に役立つヒントがあり、深く読み解けば「忠義」や「誠」こそが、転職成功のカギといったメッセージが聞こえてくるのです。では、なぜ「忠義」や「誠」が転職に役立つのか、さっそく見ていきましょう。

新選組が誕生した「八木家住宅」

天下の江戸幕府に就職。それなのに……

 そもそも「新選組」は、江戸幕府が第14代将軍徳川家茂の上洛にあたって警護のために集めた浪士(職のない武士)の集団から生まれた組織です。

 近藤勇、土方歳三など誰もが知る新選組のヒーローも、元は江戸の道場「試衛館」で修行をしていた武士でした。道場は武術を磨くところで就職先ではありません。今に例えるなら警察学校といったところでしょうか。特に時代が変わる混乱期に活況を呈し、戦国時代から江戸初期にかけては、宮本武蔵のように道場破りで名を挙げる浪人も現れました。そして時代が大きく動いた幕末に再び注目され、各藩は武術に長けた優秀な武芸者を高く評価し、採用していたのです。

 近藤勇や土方歳三らも、試衛館で磨いた武術を生かして、できるだけ良い“就職先”を探していたことでしょう。そこに江戸幕府が将軍警護職を募集したのです。今なら警視庁のSPといったところでしょうか。きっと理想の就職先に見えたに違いありません。さっそく応募して採用され、1863年(文久3年)2月8日に江戸を出発して京に向かっています。

 ところが京に着いた途端、「こんなはずじゃなかった」といった不測の事態に巻き込まれます。今にたとえるなら、「やっと理想の就職先を見つけたと思ったら、仕事の中身が全然違っていた」といった感じです。そのとき、近藤勇や土方歳三らのとった行動が、後の「新選組」の誕生につながっているのです。言い換えれば、もし、選択を間違えていたら彼らは時代のヒーローにはなり得なかったことになります。

 では、彼らはなぜ、このとき、後に「新選組」になる道を選択できたのか。間違えない道を選ぶ心理的プロセスと決断のポイントを探ってみたいと思います。

新選組が兵法調練場とした「壬生寺」

突然、リーダーがカミングアウト

 1863年(文久3年)2月23日の夜、京に着いた浪士組は、リーダーの清河八郎から「浪士組が京に来たのは将軍警護のためではなく、尊王攘夷(天皇を尊び、攘夷=外敵を排除する思想)のため、朝廷に尊王攘夷の志を建白する(意見を述べて認めてもらう)ことである」と宣言され、朝廷に建白書を提出したら江戸に引き返し、横浜の外国人居留地を襲撃すると本来の目的をカミングアウトされてしまいます。将軍警護のための浪士組募集はもともと、清河八郎の攘夷実行のための画策だったのです。

 そうとは知らず、「理想の就職先を得た」と喜んで京に上った近藤勇ら「試衛館」の浪士たちは、「話が違う」と反発します。当然です。しかし、清河八郎は翌24日、京都御所に詰めていた学習院国事参政掛に建白書を提出し、大半の浪士組を率いて江戸に帰ってしまいます。そして意義を唱えた近藤勇、土方歳三、芹沢鴨など後の「新選組」メンバーとなる浪士たちは納得できず、あくまで将軍の警護をすると主張して京に残ったのです。

 言い換えれば、近藤勇たちは本来の目的を貫くためにせっかく得た就職先を辞めたことになります。もっと現実的な表現をするなら、目的を貫くために職も給与も捨て、修行していた道場「試衛館」にも戻らず、見知らぬ土地で職のないただの浪人になる選択をしたことになります。普通の感覚では、なかなかできないことだと思いませんか?

 この選択について、新選組にまつわる多くのエピソードでは「幕府への忠義を貫くため」と説明し賞賛しています。もちろん結果的にはそうでしょうが、この時点で本当に「忠義を貫くため」に残ったのでしょうか。もし、自分だったらどうするか改めて考えたら不思議に思いませんか?

 そこで、彼らの選択の裏に本当は何があったのか、さらに深掘りしてみました。

壬生屯所に掲げられる「誠」の旗

浪士組の取締役・鵜殿鳩翁という存在

 すると将軍徳川家茂上洛警護のために結成された浪士組の取締役・鵜殿鳩翁という人物が浮かび上がってきました。鵜殿鳩翁は江戸幕府の幕臣で、井伊直弼の「安政の大獄」では攘夷の疑いをかけられて左遷させられた経歴を持っています。浪士組の取締役は左遷後、やっと就いた仕事だったようです。

 言い換えれば、「攘夷を唱えたことで(本当のところはわかりませんが)左遷させられた苦い経験を持ちながら、久々に将軍警護を取り締まる光栄な仕事に就いた幕臣」というわけです。それなのに京に着いてみれば、リーダーの清河八郎がこともあろうに「尊王攘夷の建白をするために来た」と言ったのです。鵜殿鳩翁は、「また攘夷の疑いがかけられる」と思ったかもしれません。その証拠に、幕府はこのときあわてて浪士組を江戸に帰しています。

 そんな中で、近藤勇や土方歳三ら浪士24人が、清河八郎に従わず、あくまで将軍警護のために京に残ると主張したのです。鵜殿鳩翁から見れば「攘夷に背いて、当初の目的を全うする従順な若者」に見えたのではないでしょうか。

 これを裏付けるように、清河八郎に背いて京に居残ると行った近藤勇らは鵜殿鳩翁の計らいで、京の守護職に就いたばかりの会津藩・松平容保に紹介され、「会津藩預かり」になっています。

 このプロセスは、新選組二番組頭として常に戦闘の第一戦で活躍した永倉新八が、明治8年頃に書き記した三冊の回顧録「浪士文久報国記事」に明確に書かれています。

「私共の体がどのようになっても京師に止まりたいと申し上げると、鵜殿鳩翁は関心を寄せ、すみやかに松平肥後守殿(容保)にその旨を達した。肥後守は大いに喜ばれ、これまでどおりに経費を下され、14人の者(実際には24人)は京師に止まるよう御沙汰された」(「浪士文久報国記事」より抜粋)

 こうして、京都守護職の会津藩預かりになったことで同年3月12日、新選組の前身である「壬生浪士組」が誕生しました。また、これらの出来事一つひとつに重みがあり過ぎて、かなり時間がかかったような錯覚を覚えますが、時系列にまとめると、ほんの1カ月の出来事だったことがわかります。

1863年(文久3年) 2月 8日 将軍警護の目的で「浪士組」江戸から京へ出発
           23日 京に到着。夜に清河八郎がカミングアウト
           24日 清河八郎、学習院国事参政掛に建白書を提出
               近藤勇ら、反発し京に残留
          3月10日 京都守護職に会津藩の松平容保就任
           12日 新選組の前身「壬生浪士組」誕生

 そして、近藤勇らが想定外の出来事に身を翻したのは、2月23日から3月12日までの間の正味10日間ほどの出来事なのです。そう考えると、彼らは次のような経緯で京に残ったと考えてもおかしくありません。

(1)やっと京に着いたと思ったら、リーダーが「違う仕事をする」と宣言した。 (やっと理想の職場に就いたと思ったら、職場のリーダーが想定外の仕事を押し付けてきた)
(2)「そんなの話が違う」とリーダーに反発し、幕府の取締役に直訴した。 (リーダーには「話が違う」と反発し、会社の上司に「私たちは約束どおりの仕事がしたい」と直訴した)
(3)「攘夷」のために左遷された経歴を持つ取締役は、近藤たちに関心を持ち、京都守護職に決まっていた会津藩・松平容保に紹介した。(以前、左遷された苦い経験を持つ上司は、二度とそんなミスはしたくないと思い、直訴してきた部下に約束どおりの仕事ができる子会社を紹介した)
(4)京の警護に不安を持っていた松平容保は喜び、すぐに「会津藩預かり」となった。(その子会社に強いニーズがあったのですぐ採用された)

 こうしてみれば、現代でも「あり得ること」に思えませんか?

 取締役の鵜殿鳩翁は、近藤たちを除く浪士組を江戸に帰した後、役目を果たせなかったとして辞職していますが「近藤たちは子会社に紹介したけれど、親会社の管理職としての役目が果たせなかった」と辞めるハメになったと考えれば辻褄が合います。

 ちなみに近藤勇や土方歳三らはこの後、会津藩預かりの「壬生浪士組」となり、約半年後、「8月18日の政変」で尊王攘夷派勢力を京から一掃するという目覚ましい功績を挙げ、武家伝奏野宮定功と飛鳥井雅典の両卿から「新選組」という名を賜ります。その後、有名な「近江屋事件」などで新選組は一躍、注目されていくのです。

 幕府へ「忠義」を尽くした新選組のエピソードは、京都守護職・松平容保のもとで仕事に「誠」を尽くしたプロセスそのものといえるでしょう。

働く目的を明確に持ち、上司に相談してみよう

 この新選組のエピソードには、転職を成功させる以下2つのヒントが秘められています。

1:自分は何のために働くのか明確な目的を持つこと。
新選組が幕府という組織に執着せず、「将軍警護のため働く」という目的をもっていたように、「就社」ではなく、働く目的意識を持つことが何より大切です。
2:働く目的のために、上司に相談すること。
どんな会社も目的をもって働く社員は貴重です。その目的を果たせないという理由で辞めたくなったら上司に相談することで突破口が開く可能性は十分にあります。

 こういうと、「働く目的は持っているけれど、上司が頼りないから辞めたいんだ」と文句を言う人もいるでしょう。リクナビNESTが発表した「退職理由のホンネランキング」でも、「上司・経営者の仕事の仕方が気に入らなかった」が1位になっています。どうやら、多くの人が上司や経営者に不満を持っているようですね。

 そこで改めて聞きますが、あなたに「働く目的」を上司に認めさせるキャリアはありますか? 新選組のエピソードにも、すぐに会津藩預かりになった背景には、松平容保に近藤勇たちが道場「試衛館」で鍛えた武術を披露した際、その見事さに感動したからという記録があります。

 誰もが認めるキャリアを持って「この仕事がしたい」と直訴することは何も悪いことではなく、大概の上司や経営者も好ましく思うはずです。百歩譲って本当にあなたの上司が「ダメ上司」だったなら、人事部へ直訴する手もあります。

 え、そんなことしたら子会社へ出向させられるって?

 新選組も、もともと就職した江戸幕府から会津藩へ紹介されたからこそ誕生した組織です。江戸幕府にとって会津藩は子会社のようなもの。働く目的を持っていれば会社の規模は関係ありませんし、規制が少ないだけに飛躍できるチャンスもあるかもしれません。

 新選組のエピソードは、自分が目指す仕事に「忠義」と「誠」を尽くすからこそ理想の職場が得られると教えてくれているのです。

八木家住宅の入口にある「新選組 壬生屯所遺跡」の石碑

【参考資料】
 ・「浪士文久報国記事」 (永倉 新八著/新人物文庫)
 ・「新選組 「最後の武士」の実像」(大石学/中公新書)
 ・「新選組・壬生屯所遺跡」資料  など

(nikkei BP net 2016.9.20掲載)