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column 京都「人生がラク」になるイイ話

伏見城の「血天井」は
徳川幕府のPRだった?

自己PRしないと取り残される時代

 今どきのビジネスパーソンにとって「いかに自分をPRするか」は重要課題です。世界を相手にコミュニケーションすることが多くなった昨今、昔のように「謙虚は美徳」などとおとなしくしていたら取り残されてしまうからです。

 それどころか、自己PRが下手なために、社内の評価が下がることもしばしば。たとえば、人事異動で優秀な人の後任を任されたとき、きちんと自己PRしなければ、「あの人は良かったなあ」といった前任者の残像を乗り越えることはできません。

 そこで今回は、豊臣秀吉が最期の時を過ごした「幻の伏見城」の「その後」に迫りたいと思います。というのも、伏見城が廃城になって城割りが行われた際、戦で血に染まった床板が京都の複数の寺院に「血天井」として転用されており、それが豊臣秀吉の足跡を消すために仕掛けた、徳川幕府のPRかもしれないのです(あくまで仮説です)。

 背景には、「応仁の乱」で荒れていた京都を活性化するために、秀吉が行った都市改革があります。当時の京都の人々には「京都を活気づけてくれた人」という感謝の心があったのかもしれません。もしそうなら、徳川幕府にとって京都で人々の心を動かすPRは必要だったことでしょう。当時、京都は日本の“首都”だったのですから。

 徳川幕府はどんなPR戦略を仕掛けたのか、伏見城の血天井にヒントが秘められているなら、ぜひ知りたいものです。さっそく、秀吉が京都に残した大きな足跡から洗い出してみましょう。

「幻の伏見城」を彷彿させる「伏見桃山城」。昭和39年に再建された

豊臣秀吉が首都・京都に残した大きな足跡

 豊臣秀吉は、大坂城が完成した翌年の1586年(天正14年)から京都の都市改革を行っています。本拠の城が完成した後、首都である京都を自分の思い通りに変えたかったのかもしれません。わかりやすいよう、時系列でまとめてみました。

・1586年(天正14年)
大坂城完成の翌年、秀吉は関白になったことを機に、御所に近い平安京の大内裏跡に壮大な「聚楽第」を建設。御所の隣に「秀吉の城」ができたことになります。


・1587年(天正15年)
北野の森で空前絶後の大茶会(北野大茶会)を開催。このとき、貴族や武家だけでなく一般庶民にも参加を呼び掛けています。「応仁の乱」で疲れ果てた京都の人たちが活気づいたことは容易に想像できます。


・1589年(天正17年)
御所の修築に着手。約2年の歳月をかけて御所の建物を一新し、聚楽第と御所が放つ偉容が、秀吉の権勢を印象付けたと伝わっています。


・1591年(天正19年)
聚楽第を中心に京を巨大な城塞都市にする都市改革に着手。秀吉はかつての平安京をイメージしながら、京都の地形と治水対策を考えた綿密な計画をつくって都市改造を行い、寺院街の建設も行って各寺院を強制移転させました。この時点で京都は秀吉の思い通りに変えられた、ということができます。

 つまりたった5年で、秀吉は首都・京都を改造してしまったのです。「伏見城」を建設したのは、その翌年1592年(文禄元年)のこと。同時に秀吉は唐入りを宣言し、朝鮮出兵の悲劇を生んだ「文禄・慶長の役」を引き起こします。

 これがたたったのでしょうか、2年後の1594年(文禄3年)、秀吉が「伏見城」に入城した後は次々と不運に見舞われます。2年後の1596年(文禄5年)、伏見城が完成した直後にマグニチュード8を超える「慶長伏見地震」によって城は崩壊し、場所を変えて建設されるも、その翌年に秀吉自身が死を迎えています。

 さらに「伏見城の悲劇」はこれに止まりませんでした。

「伏見桃山城」の周囲は草深くひっそり。伏見城の悲劇が偲ばれる

「伏見城の戦い」の悲劇

 秀吉亡き後、遺言により跡継ぎの秀頼は大坂城へ移り、伏見城には五大老筆頭の徳川家康が入ることになりました。しかし石田三成と激しく対立するようになり、「関ケ原の戦い」の前哨戦が伏見城を舞台に行われたのです。これが「伏見城の戦い」です。

 このとき、徳川家康は上杉景勝を征伐するため会津に向かっていたため、伏見城には1800人ほどの兵しか残っていなかったそうです。これを「首都に軍事的空白が生まれた」と見た石田三成たちが挙兵し、伏見城を攻め落としました。そのとき伏見城を守っていた徳川家康の家臣たちは城内で自刃し、床板が血に染まったと伝えられています。

 この後、火ぶたを切った「関ケ原の戦い」が徳川家康の圧勝に終わったことはあまりにも有名ですが、「伏見城の戦い」で亡くなった家臣たちの話はあまり知られていません。しかし、その家臣たちの血で染まった床板が20年後、京都における徳川幕府のPRに一役買った可能性があるのです。

「伏見桃山城」の城門にあしらわれた豊臣家の紋

「血天井」に秘められたメッセージ

 「関ケ原の戦い」の翌年1601年(慶長6年)、家康は伏見城に入り、「二条城」とともに再建を行っています。そして2年後の1603年(慶長8年)、「伏見城」で朝廷から征夷大将軍の宣下を受けています。この後もしばらく、家康は「伏見城」を拠点に政務に当たっていました。

 ただ1606年(慶長11年)には家康は駿府城に移り、1619年(元和5年)には伏見城の廃城が決まって、翌年1620年に城割りが始まりました。伏見城の天守は二条城に移築され、他の部分もさまざまな建物に移築されました。秀吉の正室・おねが晩年を過ごした高台寺にも、至る所に伏見城の一部を見ることができます。

 「そんなこと、希望した寺院に床板を分けただけでしょ」と受け流すこともできますが、血天井のある以下の京都市内の6寺院に、いずれも豊臣秀吉の足跡が見えてしまうことが気になります。これは単なる偶然なのでしょうか。

正伝寺の血天井(写真:PIXTA)

【「血天井」のある寺院】
・養源院(京都市)
秀吉の側室・淀君が父である浅井長政を弔うために建てた寺。いったん焼失したが、淀君の妹で、徳川2代将軍・秀忠に嫁いだ江が再建。そのとき「血天井」が作られた。

・正伝寺(京都市)
鎌倉時代に創建された古刹。「応仁の乱」で衰退したが、秀吉の援助で再興された。その後家康も援助し、本堂は伏見城から移築され、「血天井」がつくられた。

・天球院(京都市)
秀吉が気に入っていたと伝えられる「妙心寺」の塔頭で、秀吉に仕えていた池田信秀の三女・天球院のために建立された。本堂の東西廊下に「血天井」がある。

・源光庵(京都市)
秀吉と縁の深い「大徳寺」2代目・徹翁義亨国師が建立した寺院。秀吉は大徳寺で織田信長の葬儀を行った。本堂に「血天井」があり、丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」で知られる名刹。

・宝泉院(京都市)
秀吉の義理の甥にあたる木下勝俊の正室の名前が「宝泉院」(関連は不明)。木下勝俊は「伏見城の戦い」の際に敵前逃亡し、後に家康の怒りを買ったと伝えられる。また異母弟に「関ケ原の戦い」で西軍を裏切った小早川秀秋がいる。

・栄春寺(京都市)
伏見城遺構の門や総構え(土塁)が唯一、現存する寺院。秀吉の命で植えられた孟宗竹がある。伏見城と同じように「慶長伏見地震」で崩壊するが、家康の家臣が妻を弔うために再興した。観音堂に「血天井」がある。

 このように深く読み解くと、「血天井」は秀吉と家康の双方に縁のある寺院につくられ、「豊臣秀吉の足跡を完全に封じる役割を果たした」とも考えられるのです。もしかしたら血天井は徳川家に忠義を尽くした家臣の血をもって、秀吉の陰を払しょくする意味を持っていたのかもしれません。

自分と人とのつながりを「見える化」してみよう

 この血天井のメッセージは、仮説とはいえ、ビジネスパーソンの自己PRに役立つヒントをはらんでいます。そうです。血天井を見ると徳川家のために多くの家臣が血を流したことが一目でわかるように、自分がいかに多くの人々とつながっているかを「見える化=視覚化」すればいいのです。

 そういえば現代でも、卒業の時や入院した時などに「寄せ書き」を贈って励ますことがあります。同じように、あなたが多くの人に支えられている様子を視覚化する工夫をしましょう。

 たとえばSNSで築いた人脈を披露する手は有効かもしれません。特にFacebookは実名でのコミュニケーションが原則なので、あなたがどんな人とつながり、どんな会話をして、どれくらい多くの人が「いいね」を押しているかを披露することができます。

 強いインパクトを与えるためには、日ごろから「ちょっと偉い人」や「業界の有名人」とつながっておくと効果的です。せっせと業界の集まりや講演会などに顔を出し、Facebookでつながって、いざという時、「へえ、こんな凄い人とつながっているんだ」と思わせる努力をしておきましょう。

 そうすれば誰と比べられることもなく、「凄い人脈を持っているあなた」に注目が集まることでしょう。自己PRには血天井のような「見える化」が必要なのです。

「伏見桃山城」大手門

【参考資料】
 ・京都市上京区役所 公式サイト「秀吉の都市改造」
 ・京都市歴史資料館 公式サイト「伏見城」
 ・「御土居堀ものがたり」(中村武生/京都新聞出版センター) など

(nikkei BP net 2016.10.3掲載)