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column 京都「人生がラク」になるイイ話

龍馬とおりょうの恋愛秘話に、
遠距離恋愛成就のコツ発見

 多くのビジネスパーソンにとって、転勤は避けて通れないプロセスといえるでしょう。しかし、「今、まさに恋愛中」といった場合は悲劇です。恋人と遠距離恋愛に突入するか、さっぱり別れるか、二者択一を迫られてしまいます。

 そこで今回は、坂本龍馬とその妻おりょう(お龍)の恋愛時代のエピソードを深掘りしたいと思います。というのは京都に、離れ離れになった二人を結び付けた秘話が語り継がれており、その話には遠距離恋愛を成就させるヒントが垣間見えるのです。

 エピソードが語り継がれているのは京都市中京区の静かな住宅街に佇む「武信稲荷神社」。地元で龍馬とおりょうの“秘密のデートスポット”と伝わるところです。早速、どんなエピソードなのか、ご紹介しましょう。

「武信稲荷神社」は地元の人々に、命名のご利益で親しまれている。

龍馬とおりょうの“秘密のデートスポット”

 現在の静かな佇まいからは想像できませんが、江戸時代、「武信稲荷神社」の南隣には幕府直轄の「六角牢獄」が置かれており、幕末には勤王の志士(天皇を敬う志士たち=幕府と対立していた尊王攘夷派)が多数収容されていたそうです。

 幕末の「安政の大獄」の際には、勤王の医師とみなされた、おりょうの父・楢崎将作も収監されており、おりょうは龍馬とともに「武信稲荷神社」に高くそびえる榎に登って、牢獄の中の様子をうかがっていたと伝えられているのです。言い換えれば、こういうことです。

 坂本龍馬とおりょうは恋愛時代、おりょうの父が収監されている「六角牢獄」の様子を見るために「武信稲荷神社」でデートを重ねていた。

「おりょうの父の様子を見る」ことを口実に

 武信稲荷神社には高さ23m、胸高幹周り4m、樹冠は東西22m、南北26mにも及ぶ巨大な榎があり、京都市天然記念物に指定されています。樹齢約850年といわれていますので、龍馬とおりょうが登っていたころは樹齢700年くらいだったでしょう。すでに立派な枝を四方に伸ばす巨木だったことは間違いありません。

 そんな榎を見上げていると、少し照れながら二人で木に登った様子が想像できます。もしかしたら、まだ胸がときめく恋愛初期で、「おりょうの父の様子を見る」ことを口実にデートを重ねていたのかもしれません。なんとも初々しいではありませんか。

 しかし、龍馬ファンの方は疑問に思うことでしょう。そう。一般的に広く知られている龍馬とおりょうの出会いは、おりょうの父が亡くなった後、おりょうが困窮する一家を支えるために旅館で働いているころとされているのです。

 ただ、よく考えてみれば、坂本龍馬が世に紹介されたのは、1883年(明治16年)のこと。高知の「土陽新聞」で龍馬を主人公にした伝記小説「汗血千里駒」の連載が掲載されたのが最初でした。その後、司馬遼太郎が名作「竜馬がゆく」で描いたことで全国に知られています。裏を返せばそれまでは歴史に埋もれていたということです。

 いつの時代も、詳細な記録が残されているのは時の権力者だけなのですから、当たり前のことです。龍馬についても大きな足跡を示す資料や手紙は遺されていても、恋愛のプロセスまで記した史料は無いと考えていいでしょう。だとすれば龍馬とおりょうが出会った時期にも根拠はないはずです。今、知られている話は、司馬遼太郎の手腕でドラマチックに描かれたものである可能性も否定できません。

この巨木に登って、おりょうの父の様子を窺った?

龍馬がおりょうと結婚したのは、父への恩返し?

 そこで試しにこの秘話の可能性を探るため、史実と照らし合わせてみました。

 「武信稲荷神社」でデートしたのが本当だとすれば、「安政の大獄」が行われた1858年(安政5年)の2月頃から8月頃、龍馬が江戸から土佐に帰る途中、京都に立ち寄ったことになります。なぜなら龍馬は1858年(安政5年)1月に、江戸で剣術の指南を受けていた師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられ、その後、故郷の土佐へ帰っているからです。

 では、なぜ立ち寄ったのでしょうか。

 すると、おりょうの父・楢崎将作は若い志士には金品を与えて支援していたことがわかりました。なんと坂本龍馬も楢崎将作を頼って訪ねており、その時すでに長女のおりょうと出会い、相思相愛の仲になっていたという逸話もあるのです。

 この時期は、ちょうど龍馬が2度にわたって江戸へ出向き、剣術の修行をしていた頃にあたります。この江戸遊学は自費だったことから、龍馬が土佐から江戸に向かう途中、京に立ち寄って金品を恵んでくれる楢崎将作を頼ったというエピソードは、現実的にあり得る話といえるでしょう。

 さらに、困窮していた自分を支援してくれた楢崎将作が「安政の大獄」で収監されたとあらば、龍馬が京に出向いたとしても何の不思議もありませんし、正面切って面談できる身分でもないことから、心配するおりょうに「あの高い榎からは見えるき」などと言って、「武信稲荷神社」の榎に登り、様子を窺った逸話は真実性を帯びて聞こえてきます。

 そして、このプロセスがあったからこそ、楢崎将作が亡くなった後、生活に困窮していた長女のおりょうと結婚したのではないかとも考えられます。なぜなら坂本龍馬は脱藩の身で、しかもいつ死ぬかもわからない活動をしていたのです。積極的に結婚する気にはなれなかったのではないでしょうか。

 つまり、龍馬がおりょうと結婚した背景には、父・楢崎将作への恩返しの意味があったのではないかと考えられるのです。そのプロセスをまとめてみました。

榎境内に置かれた龍の形をした榎

・1853年(嘉永6年)~1855年(安政2年):龍馬、2度にわたり自費で江戸遊学に向かう。
⇒ 途中、金品をくれる楢崎将作を訪ねて、長女おりょうに出会い、相思相愛(少なくとも、お互い「いいな」と思う間柄)になった?

・1858年(安政5年):「安政の大獄」が始まり、楢崎将作が収監される。
⇒ 京に向かい、心配するおりょうとともに「武信稲荷神社」の榎に登って、将作の様子を窺った?

・1862年(文久2年):おりょうの父・楢崎将作が亡くなる。

・1864年(元治元年):定説で、龍馬が父を亡くして困窮しているおりょうを見て、面倒を見たとされる年。
⇒ 本当は、自分を支援してくれた楢崎将作への恩返しのつもりで、好意を抱いていた長女のおりょうの面倒を見ることにした?

・1865年(慶応元年)8月1日:龍馬とおりょうが祝言を挙げる(おりょうの後日談)

・1865年(慶応元年)9月9日:龍馬が姉・乙女におりょうを紹介する手紙を送る。

 この中で、龍馬とおりょうについて明確に遺されている史料は、1865年(慶応元年)9月9日付けで龍馬が姉の乙女にあてた手紙だけです。おりょうのことを「まことおもしろき女」と紹介していることはとても有名です。

 武信稲荷神社」に語り継がれているエピソードが、だんぜん真実のように思えてきました。現代に置き換えてみても、脱藩の身(失業中)で、社会的に危険な活動をしている人が積極的に結婚するなんて、ほとんど考えられませんから。

社殿と榎

秘密のデート場所があったからこそ……

 そして案の定、この後、龍馬は命を狙われるようになり、身を隠さざるを得なくなります。おりょうは心配でたまらなかったでしょう。龍馬は手紙を出すこともできませんし、現代のように携帯電話やメールはありません。まったく音沙汰のない龍馬をただ案じるしかなかったのですから。

 しかし、かつて二人が父の様子をうかがった“秘密のデート場所”があったことで、二人は再会を果たすのです。「武信稲荷神社」の公式サイトには、以下のように説明されています。

 おりょうは龍馬の身を案じ行方を捜していた。そんなおり二人で何度も訪れた武新稲荷神社の榎をふと思い出し訪れた。するとそこには龍馬独特の字で『龍』の字が彫ってあったという。

静かな住宅街に佇む「武信稲荷神社」

自分は今も生きている。そして京都にいるのだ。そういう龍馬からの伝言であった。龍馬か京都にいることを知ったおりょうは二人共通の友人を訪ね、それにより二人は再び出会えたという。(「武信稲荷神社」公式サイトより抜粋)

 その後、二人の絆がますます強くなったことについては史実が証明しています。龍馬が襲われそうになった「寺田屋遭難」では、入浴中のおりょうが、窓の外に不穏な武士がいることを知って、袷(あわせ)だけを羽織って龍馬に急を告げたエピソードはよく知られています。江戸時代の女性がほとんど裸で外に出たのです。よほど龍馬を慕っていたのでしょう。

 この時の傷を癒すために、龍馬とおりょうは西郷隆盛の勧めで鹿児島へ湯治旅行に出かけており、これが日本初の新婚旅行といわれています。しかし龍馬とおりょうには子供はいませんでした。もしかしたら、わざと作らなかったのかもしれない、とも思えてきます。あくまで、龍馬がおりょうと結婚したのは、父・将作への恩返しと仮定しての話ですが……。

龍馬が「龍」の文字を刻んだ榎

二人の原点となる場所をつくろう

 この龍馬とおりょうの恋愛秘話には、遠距離恋愛を成功させるヒントがうかがえます。

 二人の出会いの原点となる場所をつくって、遠く離れても「そこへ行けば、二人の原点に戻る」といった、とっておきの場所にすればいいのです。そしておりょうが榎に刻まれた「龍」の字を見て、龍馬が京都で生きていることを悟ったように、その場所でインターネットをつなぎ、相手の顔を見て話してみましょう。そうすれば、二人はともに原点に戻って「会えない時が愛を深める」実感も得られるかもしれません。

 そして、この原点はあくまで「二人だけの秘密」にしておくことが大切です。他人に漏らしては意味がありません。おりょうが龍馬の死後に語ったエピソードに、父と龍馬の間柄や「武信稲荷神社」に伝わる秘話がないのも、「二人だけの秘密」だったからかもしれません(あくまで独自の解釈です)。

 何事も「初心、忘れるべからず」。時にはタイムスリップして原点に返ることは、恋愛に限らず重要なことだと、龍馬とおりょうは教えてくれているのでしょう。

龍馬とおりょうの伝説を伝える看板

【参考資料】
 ・「武信稲荷神社」公式サイト、観光パンフレット
 ・「竜馬がゆく」(司馬遼太郎/文春文庫)
 ・「わが夫 坂本龍馬 おりょう聞書き」 (朝日新書) など

(nikkei BP net 2016.10.17掲載)