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column 京都「人生がラク」になるイイ話

利用されてもいいじゃない!
織田信長も殺さなかった足利義昭の「生き残り術」

信長に殺されなかった足利将軍に「生き残り術」を学ぶ

 ビジネスパーソンには、意に添わない仕事をしなければならないことが多々あります。「なんで、俺がやらなきゃならないんだ」と愚痴のひとつも言いたくなりますが、そこはぐっと我慢するのが大人というもの。しかし「これ以上は無理」と限界を感じたとき、あなたならどうしますか?

 そこで今回は、あの織田信長も殺さなかった室町幕府最後の将軍・足利義昭の「生き残り術」を深掘りしてみました。

 というのも足利義昭は、あの織田信長に反抗し続けたのに殺されず、都から追い出されても征夷大将軍の座を追われず、ついには足利将軍としては最も長寿の61歳まで生き延びたというスゴイ将軍なのです。

 戦国時代は権力者ほど負けたら死ぬのが常識だったはず。なのに足利義昭はどんな術を使って“信長に負けたのに”征夷大将軍であり続けたのでしょうか。そして信長が義昭を殺さなかった本当の理由は何だったのでしょうか。

 早速、独自の視点で歴史をひも解いてみました。

信長が義昭を攻める時に渡った宇治川

将軍になるはずじゃなかった最後の将軍

 まず注目したいのは、足利義昭はもともと将軍を継ぐ人ではなかったこと。1537年(天文6年)、12代将軍・足利義晴の子として生まれましたが、1542年(天文11年)5歳のときに出家し、奈良の興福寺で僧になっています。おそらく自分が将軍になることなど想像もしていなかったでしょう。

 しかし1565年(永禄8年)、兄の13代将軍足利義輝が家臣に暗殺されたため、義昭は身の危険を感じて興福寺を脱出、翌年には還俗して越前の朝倉氏のもとへ逃れています。

 将軍になったのは、その2年後のこと。義昭の家臣だった明智光秀が織田信長に仕えることになり、光秀の仲介で信長と会ったことで人生が大きく変わりました。

 信長は、室町幕府の第15代将軍として義昭を担ぐことで、自らも京に入ったのです。

 このときのプロセスは映画やドラマに何度も描かれているので、覚えている人も多いでしょう。天下統一のため京に入る理由を探していた信長にとって、足利義昭は非常に都合の良い存在だったのです。そして義昭を15代将軍にすることで、自分が政治の実権を握ろうと考えたのです。

 それだけに足利義昭には“信長に操られた頼りない将軍”というイメージがあります。これまで映画やドラマに登場する足利義昭も常に、“頼りないわがままな将軍”として描かれています。

 たとえば、NHK大河ドラマだけを見ても、1996年「秀吉」では、足利義昭役の玉置浩二さんが、無能でだらしない将軍を演じています。18年後の2014年「軍師勘兵衛」でも、吹越満さんが小物感たっぷりに信長の顔色を窺う義昭を演じていました。

 しかし、その頼りなさこそが義昭を幸せに導いたのかもしれないのです。

いったん信長の条件をすべてのんだのに……

 15代将軍になった足利義昭は、次第に織田信長と不仲になっていきます。その原因は、信長が義昭をないがしろにして政治を進めようとしたから、と伝えられていますが、果たして本当にそうでしょうか?

 義昭はもともと将軍の座を狙っていたわけでもなく、むしろ出家していたところを止む無く還俗し、信長に将軍として担ぎ出されたのです。それなのに、信長を押しのけて政治をしようとしたとは、どうしても思えません。最初は信長の無茶ぶりともいえる要望に大人しく従っているのですから。

 1569年(永禄12年)、信長は将軍の権力を制約するために「殿中御掟」という9か条の掟書を義昭に承認させ、さらに1570年(永禄13年)には5か条を追加していますが、義昭はこれも承認しているのです。

 特に追加された5か条は、以下のように、義昭の将軍としての仕事を完全に無視するような内容です。それでも、義昭は何も言わずに従っているのです。

「殿中御掟追加5か条」
(1)足利義昭が出す文書には織田信長の添え書きをつけること。
(2)足利義昭がこれまでに出した命令は取り消すこと。
(3)幕府に忠義のあった者に与える恩賞で、適当な土地がないときは織田信長の領地から分けること。
(4)天下の政治は織田信長にまかせた以上、足利義昭がいちいち口をはさまないこと。
(5)朝廷に対する儀式は、足利義昭が手ぬかりなく行うこと。(殿中御掟 追加五か条=現代語訳)

 誰が読んでも「足利義昭は織田信長の言いなりで、朝廷とのパイプ役だけ担っている」としか思えません。なのにその後、なぜ信長に反抗したのでしょうか。

信長は朝廷が一番大切だった?

信長が反抗させた?

 その理由と思われる出来事が、この後に起こります。

 1570年(元亀元年)4月、信長は徳川家康とともに浅井・朝倉連合軍と戦い、勝利を収めたのです。世にいう「姉川の戦い」です。このとき、姉川は血で真っ赤に染まったと伝えられています。

 しかし、朝倉義景といえば、足利義昭が還俗して最初に頼った武将です。室町幕府の将軍になったときも、信長と義景に付き添われてのことでした。このとき、同じ目標のもとで信長と義景は手を結んでいたはずでした。その義景が信長の上洛要請に応じなかったという理由だけで攻められたのです。義昭は「いずれ自分も信長に滅ぼされる」と不安を感じたのではないでしょうか。

 さらに1572年、信長は義昭の行動を注意する17条の意見書を送っています。内容はいちいち、義昭を批判しています。「義昭さまは最近、宮中への参拝をなさっておりませんね。信長と約束したのに、よくありません」などと注意する中に、以下のような条文も含まれています。

一、最近、信長と義昭様の関係が悪化したと噂になっております。将軍家の家宝類をよそへお移しになった事は京の内外に知れ渡っております。これでは信長が苦労して建造して差し上げた邸宅も無駄になってしまいます。とても残念なことです。(17条の意見書=現代語訳より抜粋)

 義昭の身になって考えれば、「なぜこんなことを言われるのかわからなかった」というのが本当のところではないでしょうか。多くの史料には、この意見書を見て、義昭が信長に支配されることを嫌がったと書かれていますが、すでにそれ以前、義昭は「殿中御掟」で信長に支配されていたのです。そう考えれば、「このままでは信長に滅ぼされてしまう」と危機感を持ったと解釈した方がわかりやすいように思えます。

 それを裏付けるように翌年の1571年(元亀2年)頃から、義昭は上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を出し、皆で「信長包囲網」を作って、信長を攻撃しています。各武将を使って信長の動きを封じようというのです。

 しかし信長は義昭に対して、娘を人質に出すことを条件に和睦しようとしています。それを義昭が認めなかったことから、信長側は「もし和解せずば兵力を尽くして来たり、都を焼き、火と血に委ねん」とメッセージを送っています。義昭は震え上がったに相違ありません。

 この一連のエピソードを振り返ると、まるで信長が義昭にわざと「反抗させた」ような印象を受けます。これも信長の戦略だったのではないでしょうか?

日本最古の橋「宇治橋」には信長や秀吉の逸話が語られている。

なぜ、信長は義昭を殺さなかったのか

 ついに義昭は自ら挙兵し、二条城で信長と戦います。これに対し信長は、以下のメッセージを「落首(人が集まる辻や河原などに立て札を立て、主に世相を風刺した狂歌でメッセージを表現する手法)」にして発しています。

かぞいろと やしたひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音
→信長が義昭をまるで父母を扱うように養ってきた甲斐もなく、雨がはげしく花(花の御所=将軍のこと)を打つ音がするものだ。

 そして義昭と戦うために京の知恩院に陣を敷いた信長は、天皇に向けて黄金5枚とともに「安心されたし」とメッセージを送っています。

 1573年(元亀4年)前半、二条城で信長と戦った義昭は、4月、正親町天皇から和睦の勅命が出されたことで和睦しましたが、3か月後の7月に再挙兵。宇治の槇島城にこもります。しかし、あっという間に信長に取り囲まれ、義昭は嫡男を人質として差し出すことで降伏します。歴史上、このとき室町幕府は滅亡したと解釈されています。

 ところが信長は義昭を殺さず、「怨みに恩で報いる」と言って義昭を京から追放しています。信長が、これほど抵抗した義昭の命を取らなかったのはなぜでしょうか。史料には「将軍を殺すことに抵抗があった」と書かれているものが多くありますが、この一連の流れを見ると、別の目的があるように思います。

 そう。信長は義昭を利用して、朝廷に「私は天下を取るために、あなたを尊重しますよ」と熱いメッセージを送っているのです。そして信長はこの直後、7月末に元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させています。

 信長にとって朝廷は天下統一を世に知らしめるために絶対必要であり、天下取りに向けて意のままに動かしたいと思っていたのでしょう。そのために自分が室町幕府に取って代わる必要があり、義昭を追放したものの、征夷大将軍の義昭を殺すと朝廷にも歯向かうと思われると考えたのではないでしょうか。

 そう考えると、義昭は最後まで利用されたことになりますが、そのおかげで義昭は高貴な身分を保ったまま、長寿をまっとうするのです。

義昭は二条城で信長と戦った(写真は現在の二条城)

自分の利用価値をつくり、「利用されて」生き残る

 このエピソードから、「自分の利用価値をつくる」ことが生き残りの秘訣であることがわかります。社内外での自分の利用価値をつくって「利用される」よう仕向ければ、常に生き残ることができるのです。

 たとえば直属の課長に「この仕事、明日までにやって」と急な仕事を押し付けられて抵抗したくなったら、その上の部長とプライベートなつきあいがあると漏らしてみましょう。「実は明日、部長のご家族(部長本人でないことがポイント)と子供のPTAで会うことになっているのですが、課長がそうおっしゃるのなら、そのように説明して断ります。仕方ありませんね」などといってみましょう。きっと課長の表情は変わるに違いありません。

 そこに間髪を入れず、こう言うのです。

 「もし、この仕事にもう少し時間をいただけるのなら、明日、部長に、課長は本当に部下想いの上司だって言いますよ(笑)」

 この言葉でおそらく、「ああ、子供のことなら仕方ないね。明日でなくてもいいよ」と、言ってくれるでしょう。上司から命令される仕事なんて大概、本来の締め切りまで余裕があるはずですから。その上、課長のあなたを見る目が変わるでしょう。もしかしたら「こいつ、侮れない」と思って、優しく接してくれるようになるかもしれません。そうなればしめたものです。

 ただ日頃の準備も怠りなく。部長の家族とPTAで会うなんてことは現実的に難しくても、今はインターネットを活用して経営陣とつながることはできます。たとえばFacebookに熱心な経営陣を探してひたすら「いいね」を送り続け、その家族にもアピールするくらいの努力は必要です。足利義昭のように、たとえ形だけでも「利用価値がある」と思ってもらうことが必要なのです。

【参考資料】
 ・「足利義昭」(奧野高広著/吉川文庫)
 ・「信長と将軍義昭 - 提携から追放、包囲網へ 」(谷口克広著/中公新書)
 ・「織田信長 <天下人>の実像」 (金子拓著/講談社現代新書)  など

(nikkei BP net 2016.11.14掲載)