幽霊が語る?
淀殿が秀吉の側室になった本当の理由
淀殿の幽霊が出た?
今年も梅雨がやってきました。雨が降り続いてジメジメしてくると、雨だれがつくった何気ない柱のシミも幽霊に見えたりします。その柱に「子供のころ、ここでお仕置きされた」なんて怖い思い出があったりするとなおさらです。
文禄4年(1595年)、豊臣秀吉が創建した京都の方広寺に伝わる七不思議のひとつ「淀殿の幽霊」も同じ類かもしれません。豊臣家滅亡のきっかけをつくった鐘の裏に現れた何気ないシミが、秀吉の側室・淀殿の幽霊だというのですから。
その“鐘”とは、「方広寺鐘銘事件」の舞台になった鐘のこと。このコラムでも「やられたら死んでもやり返す! 明智光秀“闇”のリベンジ」で紹介しましたが、秀吉の嫡男・秀頼が方広寺に設置した鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていることを、徳川家康が「家康の名を引き裂いて呪詛(じゅそ)し、豊臣の安泰を願うもの」と解釈したため「大坂の陣」が巻き起こり、豊臣家は滅亡へと追い込まれたのです。最後に大坂城が落城したとき、淀殿は秀頼と自害したという話はあまりにも有名です。
方広寺 拝殿
淀殿の幽霊は、その後しばらくして、方広寺の鐘の「国家安康」「君臣豊楽」と書かれたちょうどその裏に白く浮かび上がったというのです。人々は「これは淀殿が成仏できなくて現れた怨念だ」と恐れ、鐘を突くのを控えるようになったそうです。
現在、鐘の裏まで見ることはできませんが、今も淀殿の幽霊は“そこにいる”と言われています。
また方広寺にまつわる不思議な話はそれだけではありません。秀吉が天下人の証として作った「京の大仏」が、何度再建しても崩壊したり焼失したという不思議なエピソードが語り継がれています。
そこで今回は、“淀殿の幽霊”など方広寺の不思議な話を深掘りし、秀吉の真実に迫ってみたいと思います。
方広寺の鐘
52歳で初めての子供……あり得ないでしょ!
淀殿が無念の思いを抱きながらこの世を去ったことは、豊臣家が滅亡した経緯を知れば、誰もが理解できます。だからこの白いシミは淀殿の幽霊だと人は思ったのでしょう。
しかし淀殿にとって秀吉は親の仇(かたき)。そんな仇の側室になって豊臣家を守ろうとしたことは、ちょっと不思議です。戦国時代には自害する道だってあったはずですから。特に「16人もの側室を持ちながら52歳になるまで子供に恵まれなかった秀吉の子を、なぜ淀殿だけが2人も産めたのか」という疑問には、誰も答えが出せないのではないでしょうか。
医学が発達した今なら可能かもしれませんが、時は戦国時代。医学的見地からみると当時の52歳の体は今の70歳以上にあたるそうです。子だくさんの精力的な男性ならまだしも、1人も子供ができなかった男性がこの歳で、現代医学の手も借りず初めての子をもうけられるとは思えません。
だったら、よく言われるように「淀殿は秀吉を裏切って誰かと密通してできた子を秀吉の子と偽った」のでしょうか。
しかし、それも不自然です。天下人の側室がそんなこと、堂々とできるとは思えません。何より天下人の側室に手を出すなど、普通の男性なら恐ろしくてできないでしょう。バレたら即処刑され、さらし首にされるのは目に見えています。それどころか一族郎党、殺されてしまうかもしれません。
なにより秀吉自身が一番、疑問に思うでしょう。嫉妬深かったと伝えられる秀吉ですから、自分を裏切った淀殿をそのまま放っておくとは思えません。正室の北政所も16人の側室も、その周囲も黙ってはいないでしょう。
ではなぜ、こんな不思議なことが起こっているのに、誰もが素直に喜び、おとなしく「秀吉の子」と認めるという事態になったのでしょうか。しかも2度も! ちょっとおかしいと思いませんか。
そこで、改めて淀殿に関するエピソードをさらに深掘りしてみました。
方広寺に隣接した「豊国神社」秀吉を祭っている。
秀吉が「非常に腹が立った」ワケとは?
淀殿の生涯はあまりにも有名ですが、詳しく史料を調べると、あまり語られていないエピソードがちらほら見つかります。人々があまり語り継がなかったのか、ドラマや映画のストーリーに合わなかったのか、深い事情はわかりません。
なのでここから先は、そのエピソードが「真実」とは言い切れず、あくまで「仮説」になりますが、「隠れたエピソードをつないでいくと、こんな考え方もできる」と思って読んでください。
まず、秀頼が生まれて間もなく書かれた「太閤書信」にあまり語られていない記述があります。一部を抜粋してご紹介しましょう。
かえす/\、ひろいにち/\(乳)をよく/\のませ候て、ひとね候へく候。ち/\たり候やう、めしをもまいり候へく候。すこしももの(物)きにか(懸)け候ましく候。以上。
たかのとり(鷹の鳥)五つ・みかん(蜜柑)のひけこ(髯籠)三つ進之候。
一日は文給候。返事申候はんところに、いそかわしき事候て、返事不申候。おひろい(拾)なをなをけなけ(健気)に候や。ちゝもまいり候や。やかても参申候はんか、きうめい(糾明)をいたし候て、参可申候。そなたへわかみ(我身)こし候はゝ、かうはら(業腹)た(立)ち候はんまゝ、まつ/\こなたにてききとゝけ候て、すまし候て参可申候。かしく。
廿五日
ふしみよ
おちゃ/\ 大かう(大橋文書「太閤書信」より抜粋)
この書信は、以下のように訳されます。
(返し書)くれぐれも拾に乳をよく飲ませ、怠りなく養育に努めてください。乳が足りるように、あなたもしっかりと食事をしてください。あなたは何も心配する必要はありません。鷹の鳥五つと髯籠入りの蜜柑を三つお送りします。一日に文をいただきました。すぐ返事しようと思っていたのですが、多忙ゆえに返事ができませんでした。お拾はますます元気でいますか。乳もよく飲んでいますか。すぐにでも会いに行きたいのですが、不祥事の糾明を終わらせてから参ろうと思います。非常に腹が立っているので、今そちらへ行ってしまうといけないので、まずはこちらで詳細を聞き届けた上で処罰を済ませ、そちらへ参ります。
二十五日 伏見より
お茶々 太閤
この書信は文禄2年(1593年)10月に出された豊臣秀吉音信(大橋文書『太閤書信』)からの抜粋です。2カ月前の8月、秀頼が生まれたことを知って、朝鮮出兵の「文禄の役」から急ぎ帰った秀吉が、伏見城から茶々(淀殿)に出した手紙とされています。
ここに「非常に腹がたっている」とありますが、その後、大坂城にいた女房や僧侶を厳しく処罰したという記録が残っています。理由については、まったく書かれていません。どうやら、淀殿(茶々)から秀吉に密告があり、それについて秀吉は非常に腹が立ってかなり厳しい処罰をしたようです。
何にそれほど腹が立ったのでしょうか。史料には、「金銭の不祥事や男女関係の乱れ」と書かれたものもありますが、そんなことで天下人の秀吉がこれほど立腹するでしょうか。しかも秀吉みずから厳しい処罰を下しているのです。普通なら、側近の者に命じて対処する程度のことではないでしょうか。
また秀頼の子育てについて、普通なら乳母が行いますが、秀吉は淀殿がみずから行うように指示しています。なぜ、淀殿がみずから子育てしなければならなかったのでしょうか。淀殿は秀吉の子供を産めた唯一の女性です。子育てよりもさらなる懐妊を望むのが普通ではないでしょうか。考えれば考えるほど、わからなくなってきました。
秀吉は、信長の血を引く世継ぎが欲しかった?
そこで、ひとつの仮説をたててみました。
秀吉がそれほど怒ったのは、“秀頼の出生の秘密”が明るみに出そうになったからではないでしょうか。その秘密とは……たとえば、「秀頼は秀吉が意図的につくった、実子ではない嫡男」と考えれば理解できます。つまり、今でいうなら「理想の子供をつくるために遺伝子操作するデザイナーベビー」のような考え方です。
もちろん、戦国時代にそんな技術はありませんが、「信長の血を引く跡継ぎをつくりたい」という考えはあったかもしれません。秀吉がそう考えていたと仮定すると、織田家の血を引く淀殿を側室に迎えて、理想的な子供をつくるにふさわしい男性を選んで、秀吉公認のもとで子供をつくらせたと考えれば、すべての辻つまが合います。
秀吉は天下人になっても、「自分は百姓の子」というコンプレックスがあったと伝えられています。もし、北政所との間に子供ができていたら、そんなコンプレックスなど吹き飛んでいたことでしょう。16人もの側室に子供ができていても同様だったと思います。しかし、1人の子供にも恵まれませんでした。
それで甥の秀次に継がせようとしましたが、秀次はもともと「百姓の子」です。自分のこれまでの苦労を考えると、「百姓が天下人になる」ことが、どれだけ大変なことか秀吉が一番よく知っていたはずです。それなのに、甥というだけで後を継ぐ秀次に家康をはじめ強者ぞろいの武将たちが従うか。秀次にそれだけの求心力があるとはとても思えない……そう考えると、秀吉は不安で仕方なかったのではないでしょうか。
そこで、淀殿が織田信長の妹・お市の娘であることに目をつけ、信長の血を引く子を自分の嫡男にすれば、戦国武将たちの求心力を保てると考えたのではないでしょうか。
秀頼の父親は、淀殿の乳母の子・大野治長?
では、秀頼の本当の父親は誰でしょう。
最も有力なのが、淀殿の乳母の子・大野治長です。治長は、淀殿の乳母・大蔵卿局の子供だったことから幼い頃から共に育ち、淀殿はとても気を許していたと伝えられています。
そして治長は、淀殿が側室になったことで秀吉に約3000石の馬周衆に取り立てられ、淀殿が鶴松を生んだ天正17年(1589年)、1万石の大名に出世しています。さらに、秀頼が生まれた翌年の文禄3年(1594年)には、伏見城の普請に携わっているのです。つまり、淀殿が子供を産むたびに異例の出世を遂げているのです。
さらに、秀吉の死後は秀頼の側近として仕え、慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣」では、徳川家康に「自分の切腹を条件に秀頼と淀殿を助けてほしい」と願い出ています。しかしその願いは受け入れられず、秀頼、淀殿とともに大坂城で自害しています。
この行動は「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」(春日社司祐範記)と讃えられています。
しかし、秀頼の本当の父親であれば、「愛する妻と子を救うために自分の命を投げ出す」ことは当然と言えるでしょう。
慶長4年(1599年)に書かれた書状には、淀殿と大野治長が密通していたという記録もあります。
おひろい様之御局を八大蔵卿と之申し、其の子二大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共二相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候(後略)慶長4年10月1日付内藤元家宛内藤隆春書状より
おひろい様(秀頼)の御局(乳母)の八大蔵卿(治長の母で、淀殿の乳母)というが、その子である大野修理(大野治長)が、おひろい様のお母さん(淀殿)とともに密通していた……という意味で、同じような記述が「多聞院日記」や姜沆の「看羊録」にもみられ、江戸時代の「明良洪範」に至っては、秀頼は治長と淀殿の子であると明確に書かれています。
秀吉の「信長の血を引く子を跡継ぎに」という願いを受けて、淀殿が治長と子をつくり、秀吉の実子として継がせることで、戦国武将を従わせようとした……この仮説は真実に近いのかもしれません。
幻になった「京の大仏」
ところで方広寺にはかつて「京の大仏」があったそうです。時は方広寺が完成する9年前の天正14年(1586年)、秀吉は奈良より大きな大仏をこの場所に作ろうと、高さ約19メートルの木製金漆塗坐像大仏が安置しました。
しかし、慶長元年(1596年)の大地震により倒壊してしまいました。秀頼がその遺志を継いで今度は銅製で大仏を再建しましたが、慶長7年(1602年)、鋳物師の過失で仏像が融解して出火、大仏殿も炎上してしまいました。
その後も慶長13年(1608年)、寛文2年(1662年)、寛政10年(1798年)にも大仏が再建されましたが、そのたびに焼失したり崩れたりしています。そして最後は昭和48年(1973年)、最後に残った大仏像も焼失して、ついに「幻の大仏」になってしまいました。実に7回も「京の大仏」は消えたことになります。
現在、方広寺大仏殿を偲べるものは、豊臣家滅亡のきっかけとなった鐘と、巨大な石垣しかありません。その鐘に「淀殿の幽霊」が現れたのです。
淀殿が「醍醐の花見」で詠んだ歌が残っています。
豊臣家滅亡のキッカケになった言葉
「はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならひなき 春にあふらし」
淀殿は誰のために咲いたのでしょうか。織田家の血を残すためだったのでしょうか。そのために、秀吉の側室になったのでしょうか。
方広寺の近くには、淀殿が父・浅井長政のためにつくった養源院があります。淀殿が亡くなった後、いったん焼失しましたが、徳川秀忠に嫁いだ妹・お江(崇源院)が再建し、今に至っています。
淀殿は、浅井家のことは妹に任せて、織田家の想いを残すために、すぐ近くのこの場所に幽霊になって現れたのかもしれません。秀吉が天下人としてつくろうとした大仏が何度再建しても消えたのは、淀殿が「天下は織田家のもの」と主張しているからかもしれません。
もちろん、この話には確証はありません。ただ方広寺には、そんな不思議な雰囲気がずっと漂っているのです。
あなたも一度、訪れてみてください。きっと体感できると思います。
豊国神社の鳥居。方広寺にも、ここをくぐって行く。
【参考資料】
・「方広寺」「豊国神社」「養源院」公式サイト パンフレット
・「京都歩く不思議事典」
・歴史群像「大坂の陣」「お江と戦国の女たち」など



