秀吉の命令で陰陽師に?
千利休「切腹」の謎に迫る
要領よく出世したい!
ビジネスパーソンだったら、出世したいと思うのは当然のこと。しかし真面目に仕事しているだけでは、いつ出世できるかわかりません。できれば社長や専務に近づいて要領よく出世したいものです。
そこで今回は、堺の商人に生まれながら若い頃から茶の湯に親しみ、信長と秀吉に取り立てられた茶聖・千利休のエピソードをひも解いてみたいと思います。なぜ、時の天下人たちに大切にされたのでしょうか。そこには、出世のコツがあるかもしれません。
しかし千利休といえば突然、秀吉から切腹を命じられたことでも知られています。切腹を命じられた理由については、いまだ謎とされていますが、よく考えれば、理由より先に、武将ではない千利休が切腹させられたこと自体、不思議です。たとえ秀吉の逆鱗に触れたとしても、一般的に考えれば武将でない人を処罰する方法は「処刑」のはずです。さらに利休の首は一条戻り橋にさらし首にされたというのです。
ここに、ただならぬ秀吉と利休の関係を感じてしまいます。もしかしたら秀吉は千利休を「武将」と同等に考えていたのかもしれません。だったらなぜ、そう考えたのか、謎は深まるばかりです。
ヒントをくれるスポットは京都の「晴明神社」。あの有名な陰陽師・安倍晴明を祭る神社ですが、その門前に千利休の屋敷跡を示す石碑が建っているのです。晴明神社が建立されたのは1007年(寛弘4年)、千利休が生まれたのは約500年後の1522年(大永2年)ですから、千利休は「晴明神社」の境内に住んでいたことになります。
いったいなぜ、千利休は「晴明神社」に住んでいたのでしょうか。神主を務めた記録はどこにも見当たりません。ここに何か重要なヒントが隠れているような気がします。早速、深掘りしてみました。
「晴明神社」内に設置された「一条戻り橋」
千利休は秀吉の命令で「晴明神社」に住んでいた
まずは、謎の舞台である晴明神社の由来からご紹介しましょう。
晴明神社は1005年(寛弘2年)、陰陽師(古代日本の官職のひとつ。後に「陰陽道」を使って占術や呪術、祭祀を司ったため、現在は「占い師」に近いイメージがあります)として活躍した安倍晴明が亡くなった時、一条天皇が「安倍晴明は稲荷神の生まれ変わりだ」として、2年後の1007年、晴明が住んでいたこの場所に「晴明神社」を建立したと伝えられています。
当初の境内はかなり広くて、東は堀川通り、西は黒門通り、北は元誓願寺通り、南は中立売通りまであったそうですが、秀吉の都市整備によって縮小し、その後、江戸時代が終わるまで荒れ放題だったそうです。
千利休が生きた時代はちょうど、秀吉の都市整備によって縮小される前後と思われます。この縮小に千利休もかかわっていたのでしょうか? とりあえずは境内にある「千利休屋敷跡の石碑」の説明文をご紹介しましょう。
「晴明神社」の入口にたつ「千利休屋敷跡」の石碑
数年前、江戸時代の茶書から、当神社の境内に当たる「葭屋町通元誓願寺下ル町」に利休屋敷があったことが確認されたため、利休の遺徳をたたえ茶道 武者小路千家家元が石碑を奉納されました。境内の「晴明井」の水は利休が使ったとされています。正面には、千宗守家元筆の「千利休居士聚楽屋敷趾」の文字が刻まれています。(「晴明神社」公式サイト「晴明井」説明文より引用)
どうやら、この石碑が建てられたのは最近のようです。またこの記述にある「晴明井」とは、安倍晴明の霊力によって湧き出た水をたたえる井戸のこと。千利休はこの水で茶をたて、秀吉もその茶を飲んだと伝えられています。
つまり、何らかの事情で、千利休が亡くなった1591年(天正19年)から約400年もの間、この場所に利休が住んでいたことは表に出なかったけれど、利休の生前、秀吉がしばしば訪れた重要な場所だったということです。
利休が秀吉を招いたのでしょうか……。しかし、茶の湯をたしなむだけなら、利休が聚楽第へ出かけていくのが筋のような気がします。実際に、聚楽第で開催された大茶会は利休がプロデュースしていますし、聚楽第には立派な茶室があったと伝えられています。だったらなぜ、天下人の秀吉がわざわざこの場所を訪れる必要があったのでしょうか?
そこで、さらに調査を進めると、なんと、この場所に屋敷を与えたのは秀吉だという記述を発見しました。以下は、京都市上京区の町づくりについての説明文です。
利休が湧き出る水で茶をたてた「晴明井」
天正14年(1586)、秀吉は平安京の大内裏跡である内野を利用して「聚楽第(じゅらくてい)」の建設に着手した。(中略)工事は諸大名に命じられ、10万余の人夫によって進められた。深さ5.4メートル、幅36メートル、全長1800メートルに及ぶ堀も瞬く間に完成し、諸大名の邸宅も順次竣工、千利休も葭屋町に屋敷を与えられた。(京都市上京区「秀吉の都市改造」サイトより抜粋)
この記述どおりであれば、秀吉は「晴明神社」の境内(というより、境内だった場所)に屋敷をつくり、千利休に与えたということになります。しかしなぜ、わざわざ晴明神社の境内だったのでしょうか。
秀吉が「晴明神社」であることを知らなかったとは考えにくいでしょう。天下統一の拠点として都である京都は重要なところだけに、これまでの歴史は調べたはずです。当然、この場所が、一条天皇が陰陽師である安部晴明を祭った「晴明神社」であることは知っていたにちがいありません。
安部晴明の石像
秀吉は千利休を陰陽師にしたかった?
そこで私はひとつの仮設をたててみました。
秀吉は、千利休を陰陽師にしようとしたのではないでしょうか?
というのも、陰陽道は平安時代、怨霊を退治し、病を治すことができる術だと信じられていたからです。陰陽師の安倍晴明は宮内の官職について天皇の側近として仕え、陰陽道を使って、怨霊や病から天皇を守ったと伝えられています。
平安時代は、菅原道真公の怨霊に宮廷中が恐怖に染まった経緯もあり、怨霊退治は大きな課題だったのでしょう。そこに古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源とした「陰陽道」は、説得力のある怨霊退治術とされたことは想像に難くありません。その後、陰陽道は日本で独自の発展を遂げ、呪術や占術に発展しています(菅原道真の怨霊については「ハメられたら「神対応」で反撃! 怨霊になった菅原道真“実家跡”のメッセージ」をご参照ください)。
この歴史を秀吉が知って、「自分も陰陽道を活用したい」と思ったのではないでしょうか。百姓から天下人に上り詰めた秀吉にとって「目に見えない運のようなもの」は無視できなかったでしょうし、陰陽道がそんな世界に影響を持つのであれば、ぜひ活用したいと思うのは当然でしょう。
それに秀吉はかなり「平安京」を意識していたようです。都市改造も平安京をイメージしながら行ったという記述もあります。以下は、前出の京都市上京区の「秀吉の都市改造」サイトからの抜粋です。
秀吉は、かつての平安京をイメージしながらも、京都の地形並びに治水対策を考えた綿密な計画のもとに都市改造を行ったのである。(中略)改造された京都の街は、平安京のイメージは残すものの、聚楽第と御所を中心とした軍事的性格を持つ城下町的形態となり、平安京の左右対称的な構造は失われた。(京都市上京区「秀吉の都市改造」サイトより抜粋)
もしかしたら秀吉は、平安京にならって聚楽第を中心にした政治を行おうと考えていたのかもしれません。だとしたら陰陽師を側近に置いて活用しようとしたと考えても何の不思議もありません。
そして白羽の矢が立ったのが千利休だったというわけです。
茶道にも反映された「陰陽道」
千利休にしてみれば、秀吉に逆らうことはできません。そして秀吉の命令に従って陰陽道を学んで、次第に詳しくなっていったのでしょう。というのも、利休が完成した「わび茶」には、陰陽道の影響を受けたと見られるところがあるからです。
千利休の「わび茶」には、陰陽道の基本とされる「陰陽五行」を見ることができます。「五行」とは、木、火、土、金、水のことで、「わび茶」に使われる茶筅(木)、炉(火、土)、窯(金)、そして茶をたてる水……このように、五行がすべてに反映されているのです。
こうして千利休は「わび茶」を完成させるとともに、陰陽道を習得していったのかもしれません。同時に陰陽道を使ったアドバイスもできるようになっていったのでしょう。
そう考えれば、秀吉がしばしば千利休の屋敷を訪れたことにも納得できます。この場所で秀吉は、千利休に政策の吉凶や行く末について、陰陽道を使ったアドバイスをもらっていたのではないでしょうか。
また、他の大名たちがこぞって千利休を訪ねたというエピソードも納得できます。陰陽道によるアドバイスが目的だったと考えるとすべてが腑に落ちます。一筋縄ではいかない戦国武将たちが、戦の経験もない千利休に相談事をするなど考えられないからです。
秀吉が千利休に切腹を命じた理由
千利休が陰陽師として秀吉にアドバイスしていたと仮定すれば、切腹に至る経緯も納得できます。千利休が切腹する直前に、秀吉が頼りにしていた弟の秀長と嫡男の鶴松が相次いで病死しているからです。
このとき当然、秀吉は千利休に「陰陽道で病を治せ」と命じたでしょう。しかし力及ばず秀長も鶴松も亡くなってしまいました。これに腹を立てた秀吉が、「陰陽道など信じられない」として、いきなり利休に切腹を命じたのではないでしょうか。それを裏付けるようにお拾い(後の秀頼)が生まれた翌年、秀吉はなぜか大規模な「陰陽師狩り」を行っているのです。
・1591年 豊臣秀長、嫡男の鶴松 相次いで病死。千利休切腹
・1593年 お拾い(後の秀頼)誕生
・1594年 秀吉「陰陽師狩り」を実施
これは、秀吉が陰陽道と陰陽師を恐れていた証拠ではないでしょうか。映画やドラマでも度々、「利休の怨霊が怖い」と秀吉が恐れるシーンを見ることがありますが、秀吉が利休というより陰陽師と陰陽道の見えない力を恐れていたのかもしれません。
だからこそ、利休を「処刑」ではなく「切腹」させたと考えられます。戦国武士として、精一杯の敬意を払ったのでしょう。ただの「処刑」では、陰陽師の呪いがかかると恐れたのかもしれません。
いきなりの出世は、両刃の剣かも
ここまで利休の切腹の理由を深掘りしながら、出世の極意を探りましたが、どうやら「いきなりの出世」には問題が多いようです。「両刃の剣」といった印象すら受けてしまいます。
要領よく上司に取り入って出世したとしても、それは上司の無理難題も引き受ける意味もはらむということです。
戦国時代に千利休は、秀吉に逆らうことはできなかったでしょうが、現代なら自分で道を選ぶことができます。地道に仕事をして、一歩ずつ出世するのが一番いいのでしょう。同じ生きるなら、たとえ平凡でも、安泰な日々を送りたいものです。
最後に、千利休自身はどう思っていたのか、死の前日、利休が作ったとされる遺偈(ゆいげ)を紹介しましょう。
吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)
剣で殺そうとした「祖佛」とは何を指すのでしょうか。私たちには想像するしかありませんが、これを機会に茶道に親しんで、利休の心を感じとってみたいものです。
晴明神社
【参考資料】
・京都市上京区 公式サイト「秀吉の都市改造」
・晴明神社 公式サイト
・茶話指月集江岑夏書 (現代語でさらりと読む茶の古典)(谷端昭夫/淡交社)など



